高瀬準太の欲しいもの⑤
準太までが利央と慎吾と同じことを言う。阿部はまたムッとした顔をしたが、あの二人とは違う状況にふと思い当たる。
「目の…まえ」
「うんそう。目の前」
利央と慎吾が言った「目の前」、あの時はそれぞれパフェとフライドチキンがあった。だが今準太と阿部の間に食べ物はない。食べ物どころか小物も何もない、あるとすれば目に見えない空気だけで、そこまで考えて阿部はなにか自分が根本的な部分から考え違いをしているのではないかと思い始める。
利央の目の前にあったもの。
慎吾の目の前にあったもの。
そして今、準太の目の前にも…
「………俺……?」
「………」
いまいち確信がなくて、だけど他に準太の目の前にあるものがなくて、なぞなぞの答えを半信半疑で確かめるように阿部は呟いた。だが準太はイェスともノーとも言わず、ただじっと阿部の目を見つめ返す。しかしやがて準太の頬が赤みをおび、阿部はなぜ準太が赤面しているのかと考えた。そして、
「………!!」
今度は阿部の顔がボッと火を噴くように真っ赤になり、それはもう準太以上に、耳や首元まで赤くなる番だった。
「…分かった…よな、そんだけ赤くなってるってことは」
「……っ、ぅ…」
導き出された答えは、正直今の今まで全く阿部の頭にはなかったことだった。
無論恋人なのだからいつかはそういうことになるかもしれないとは思っていたが、阿部にとっては2ヶ月前の初めてのキスですら心臓が破裂するんじゃないかと思うくらいどきどきして苦しくて、最近ようやっと準太の舌に自分のそれを合わせられるようになったばかりだというのに、それ以上のこと、しかも今日そんなことになるかもなんてこれっぽっちも考えていなかったのだ。
阿部が静かに自分の中でパニック状態に陥ったのを見て、準太は苦笑を禁じ得なかった。
やはり阿部は全くそのつもりではなかったらしい、というよりそんな可能性すら考えていなかったであろうことは明白だ。恐らく今夜泊まりたいと言ったのも、純粋に準太の誕生日を一番に祝いたいと思っただけに違いない。意識するのとしないのとでは、彼の反応は過ぎるほどにあからさまだった。
「隆也」
準太に呼びかけられて阿部はハッと我に返り、同時にびくっと大きく体を強張らせた。恐る恐る準太を見上げるその目は完全に泳いでいて、今にも泣き出しそうなほど動揺しているのがありありと伝わってきた。
「…んな怯えた目で見られるとさすがに傷つくぞ」
「うっ…」
阿部は再びぱっと顔を伏せた。膝の上でぎゅっと握り締める拳を準太はそっとてのひらで包む、だがそれにすら阿部は緊張し、全身が岩のように固まってしまっている。
リビングに沈黙が流れた。テレビから流れてくる声や音楽だけが唯一の音だったが、それらはガラステーブルのすぐ前からのものであるにも拘わらず、準太達とはまったく違う次元に存在しているもののように感じられる。
準太はゆっくり息を吸うと、ふ、と柔らかな笑みの吐息を漏らした。
「隆也、キンチョーしすぎ」
「っ、…」
「…大丈夫だって、何もしないから」
準太の言葉に阿部はまた身体を震わせた。
「だから力抜けって。完全に会話なくなっちゃったじゃん」
「…準…」
阿部はやっと少しだけ緊張を解き、顔を上げた。まだ頬は赤いまま、動揺に潤んだ瞳で準太を見上げる。
「隆也がそういうつもりで今日来たんじゃないってことは分かってたし、俺も最初はそんなつもりなかったんだ。でもなんか急に親帰って来ないとか隆也が泊まってくれるとか言うからさ、ちょっと期待した…ことは、確かだけど」
「お、俺…」
準太は阿部に最後までは言わせず、「いいって」と笑う。
「隆也にとっちゃイキナリ過ぎただろ。別に焦ってないから、いいんだ、ホントに」
阿部の肩を抱く腕に力を入れて強く抱きしめる。阿部が欲しいけれど、無理矢理したいのではない、こんなふうに怯えられるくらいなら何もせず無邪気に笑ってくれる方が何倍も嬉しいのだから。
「…すいませ…」
シュンと申し訳なさげに阿部は謝った。気の強さを表す彼の眉はいつもとは真逆に下がってしまっている。
「だから謝んなって。隆也が悪いワケじゃないだろ」
それにさ、と準太は言うとコツンと額を合わせて、
「『今日は』いいってだけで、いずれはちゃんともらうつもりだから。隆也を」
鼻と鼻がくっつきそうなギリギリの距離まで顔を近づけ、自信ありげに笑ってみせる。阿部は近すぎる準太との距離にどきまぎしながら目をぱちぱちとしばたいた。
「了解?」
「ハッ、ハィ…」
「ヨシ。じゃあ今日は隆也からキスして」
「ぇえっ!?」
「いいだろ?プレゼント」
自分から口づけることをねだられた阿部は準太の腕の中でわたわた慌てる、だが既に一度準太を拒んだも同然な阿部には多大な罪悪感が生まれていたので、イヤとは言えない。それに、
「…イヤ?」
「………じゃ、ない…です」
弱々しく否定する阿部に準太は満足そうに口角を上げる。阿部の中で恥ずかしい、という気持ちと悔しい、という気持ち、そして求められることへの嬉しい気持ちがないまぜになってぐるぐるして、のぼせた頭から湯気が出そうだ。
「じゃ、じゃあ、…目、瞑ってください…」
準太は素直に「ん、」と言って瞼を閉じた。阿部はその顔を見て目ェ閉じても男前だな、と関係ないことを考えてしまう。
阿部はゆっくりと右手を上げてゆき、そっと準太の顎に触れた。そのまま人差し指と中指を滑らせるように準太の唇へ這わせ、柔らかな弾力を確かめる。
なに、と目を瞑ったまま準太は愉しげに微笑い、小さく口を開け阿部の中指を唇で食んだ。
「っ…」
ピクン、と指が逃げそうになるのを察したのか、準太はそれを甘噛みして逃がさない。阿部は準太の意識が指に向いているのを確認してから、準太の口端にチュッと音を立てて口づけた。
「……!」
準太の口から力が抜け、阿部の指が自由を得る。あ、と思って一旦唇を離してみると、準太は閉じていた瞼を持ち上げて至近距離の阿部の顔を恨めしそうに睨んでいた、その頬は赤く染まっている。
「不意打ちとは卑怯だな」
「サプライズです。驚いてくれました?」
「うん、驚いた」
準太の答えに阿部は素直に喜んで、良かった、と笑う。その笑顔に準太もつられて、阿部の大好きな甘くて深い笑みになった。
そのまま準太の身体が阿部に凭れるように覆い被さってきて、えっ、と慌てる阿部の声は、だが深く合わせられた準太の唇に蕩けてなくなっていった。
end