イン・ザ・ネイム・オブ・ラブ①
幸福選手権・後日談
店のドアが開く度に利央の顔は強張った。そんなに警戒しなくても大丈夫だって、と向かいに座る阿部が笑う。
失敗した。もし万が一野球部の先輩達が入ってきた場合、これでは阿部が丸見えだ。入って店内を見渡せばすぐに阿部と目が合うだろう。見つけた彼等が近寄って来ないなど100%ありえない、なにせ彼等も毎日のように阿部に会いたいと漏らしているのだから。
席反対に座れば良かった…と今更思っても遅い。利央は首にぶら下げたロザリオの向こうにいる天国の祖母に、どうかあの人達がやってこないようにと祈るしかなかった。
それにしても今日はツイていた。監督の会議の都合で急遽今日がミーティングになり、そういえば西浦も火曜がミーティングだったと思い出した利央は慌てて田島にメールした。お互い学校も違えば部活の終わる時間も違う。リベンジの機会を毎日伺っていてもなかなか都合の合う日はなかったのだ。それが今日突然の予定変更。このチャンスに飛びつかずにいつ飛びつくのだとばかりに利央は携帯を取り出したのだった。
「あ、ごめんね今日。突然呼び出しちゃって」
予定とかなかった?と訊いてみると、「あったら来てねぇよ」と当然の返事を返された。
「田島は今日も補習なの?」
「あいつミーティングの日は大抵三橋連れ回してどっか行ってんだ」
「あ、そうなんだ」
そうか、火曜日バンザーイ、小さく心の中で両手を上げる。田島はいても嫌ではないが、二人きりになれるにこしたことはない。
「そっちは?」
「へ?」
「今日はあの人達と一緒じゃねーの?」
あの人達、と言う言葉に利央は目一杯首を横に振った。
「一緒だったらまたあんなことなるじゃん!」
「だな」
あ、笑った。
阿部の口端が緩やかに上がり、あの時を思い出したのか少し目を細めて微笑う。
阿部は思ったよりおとなしいのかもしれない、というのが前回会った時の唯一の印象だった。準太や慎吾に矢継ぎ早に質問されたりしてもゆっくりと返していたし、喚く利央に慌てたりもしていた。試合中は寧ろ西浦のチームで一番怒号をきかせていたから、野球以外の場所ではこんな感じなのかな、と思うとそのギャップに利央の胸はきゅんと鳴った。
「あ…やっと、なんかやっと二人でゆっくり…話せる、ね」
「あぁそーだな、こないだは全然話せなかったもんな」
「そうだよ!ったく準さん達は俺に対して酷すぎるんだよ!」
「可愛がられてたじゃん」
「あれはイジメだって!」
思わず握った拳をドン、とテーブルに振り下ろすところでハッと我に返る。そうだこんなこと話したいんじゃない、せっかくの阿部との時間を無駄にするなと利央は自分を奮い立たせた。
「じゃっ、じゃあ早速…っ」
やっと念願の『二人きりでキャッチャー会議』を実現することが出来る。試合の采配や練習の仕方、敵の情報収集の仕方など、捕手にしか分からない、捕手だから分かり合える話を阿部と出来る幸せに、利央は時を忘れてのめり込んだ。
「あ、」
ポケットから携帯を取り出した阿部はメールを確認すると、僅かに目を見開いた。
「準太さんだ」
………………え?
「じゅん…た…?」
今、阿部は何と言った?
「お前の先輩だよ。へー、今駅前のスポーツショップにいんだって」
「え、あの、あ、…べくん?」
ん、と阿部が目だけを利央に向ける。顎を引いて携帯を見ていた姿勢のままだったので、上目遣いされているようで心臓が勢い良く跳ねた。
いや悩殺されている場合じゃない。利央の聞き間違いでなければ、今阿部は「準太さん」と言った。「高瀬さん」でも「準さん」でもなく「準太さん」と。そんな呼び方、名前呼び定着の桐青野球部内でも聞いたことがなかった。
「な…なん…でそんな呼び方なの?」
顔が引き攣っているのは自覚していたが、どうにもならない。前回会った時は彼等の名字すら呼んでいなかったはずの阿部が、こうして二回目に会った時点で既に名前呼び、しかも通称の「準さん」ではなく「準太さん」ときたもんだ。これはもう、二人の間で交わされたメールのやり取りしか思い当たる節はない。
「え?だって『高瀬準太』だろ?んで桐青は部員全員下の名前で呼び合ってるから、高瀬さんなんて慣れなくて違和感あるって言われてさ」
『準太さん』だってじゅーぶん違和感アリアリじゃねーかっ!!
利央は心中叫びながらも表面上は恐らく変な笑い顔で取り繕う。
「あ、そーなんだ…それで…」
「慎吾さんにも同じこと言われてさ」
「慎吾さんにも!?つーかホントにメアド交換したんだ…」
阿部は何故こんなにも利央が肩を落としているのか分からないといったふうに首を傾げながら、コクと頷いた。
あー…と、情けない声しか出ない。続く言葉が出てこない。利央は動揺と落胆を悟られないようテーブルに肘をついたまま頭をガシガシと掻き、ハタと思いつき阿部に顔を向けた。
この流れでいけば、自分のことも名前で呼んでくれるのではないか?いやこれで断られる方がおかしいではないか。これはチャンスだ、そうだチャンスだ!
「あっ、あのさ!」
「ん?」
グラスの端にホイップを寄せて差したストローの先端をぱくっと咥え、阿部はアイスココアを一口飲みながら利央の呼びかけに返事をする。だからその上目遣いヤバいから…と脱力しかけて、それでも利央は意を決して言おうとした。
「お…俺のことも…っ、名前で呼んで…くんねぇ?かな…」
阿部はきょとんとした顔で利央を見つめ返したが、2回瞬きをすると優しい目で静かに微笑み、「利央…だよな?」と言った。
「珍しいよな、利央って名前。由来とかあんの?」
「うっ、うん!ある!父親が日系ブラジル人でさ、リオデジャネイロからとったんだ。ほら、リオのカーニバルの」
「へぇ、いい名前だな」
「そっそうかな?」
「いいじゃん。思い出の土地なんだろうな、きっと」
落ち着いた、低めの声。自分よりずっと艶のある阿部の声で呼ばれたその名を、誉めてもらえたこの名を、こんなに嬉しいと思ったことはなかった。
「…へへ」
「何笑ってんだ?」
幸せだ、と言ったところで「何が?」と聞き返されるのは分かっているので言わない。でも緩んだ顔が引き締まらない。リオデジャネイロバンザーイ、また心の中で両手を上げて、利央はカシカシと頭を掻いた。そしてそこで思い当たる。
「あ、あのさ!」
「え?」
いけ!言ってしまえ!自分自身を奮い立たせて利央は思い切って切り出そうとする。
相手を下の名前で呼ぶことに阿部は全く抵抗を感じていないようだ。西浦は全員名字呼びらしいが、こちらが桐青のしきたり(という口実)で名前を呼んでもらっているのだから逆もアリではないか、と利央はいつにもなく頭をフル回転させて思いついたのだ。
「あの、さ!もし…もしイヤじゃなかったら、」
呼びたい。自分も、特別な呼び方で。誰よりも先に、「阿部くん」ではなくて、
「タカヤーッ!」
そう、タカ………
「…え、?」
途端に阿部の表情が険しくなり、さっきまでの笑顔がみるみるうちに消えていく。
「あ、あれ…」
自分は声に出してしまっただろうかと考えた結果、いやまだ言ってないと利央は思い直し、ではさっきの声の方向を振り返ってみた。そこには、