イン・ザ・ネイム・オブ・ラブ②
「やっぱタカヤじゃねーか!」
「は…榛名っ!?」
「ぁあ?」
思わず出た声に、榛名は初めて気がついたように阿部の向かいに座る利央の方を見た。阿部も利央の声に目を見開いたが、榛名を見上げている利央には分からない。
「なにお前。つか何でタカヤといンの?制服違うってことはタカヤのチームメイトじゃねぇんだろ?」
「……っ」
それはこっちの台詞だった。兄の誘いを断りあんな無名校に進んで入学したにっくき榛名が、なぜ阿部と知り合いなのか。しかも親しげにタカヤなんて名前呼びで。
利央が何も言い返さないので榛名は興味を失ったのか、ふいと利央から視線を外すと阿部の座るソファに無遠慮に腰を下ろした。
「ちょっ、なに座ってんスか。どいて下さいよ」
「うっせーなぁ、もっと詰めろよ。狭ェだろ」
「あんたが座んなきゃ狭くねぇよ!」
「タカヤぁ、生クリームちょうだい」
榛名は阿部の抗議など全く聞く耳持たずといったように一方的に阿部に話しかける、しかも勝手なことばかり。
「ヤです。なんであんたにあげなきゃなんねーんですか」
「お前の生クリームは俺のだろ!?いっつもくれてたじゃん!」
「あんたが毎回勝手に食ってただけだろ!」
「くれ!」
「ヤですってば」
「お前生クリーム好きなんか?」
不意に榛名が訊いた。
「っ、別に…。でもキライじゃないです」
阿部は何故かバツの悪そうな表情で榛名から目を逸らして言う。
「なんだー、てっきりキライなんかと思ってたぜ。お前いっつもアイスココア注文するクセに生クリーム横によけるからよー」
「…人の勝手でしょ」
「俺のためかと思ってた」
「なっ…!?」
あ、れ?
利央は瞠目した。ニッと笑う榛名に対して、阿部の顔が一気に朱に染まったからだった。
「はるなっ!!」
再び背後から聞こえた張りのある声に思わず利央は飛び上がった。
「お前はちょっと目ぇ離した隙に…って、あれ?タカヤくん?」
眼鏡をかけた榛名と同じ制服を着た男が声を和らげる。阿部は「ちわス」と小さく会釈をした。
「席空いてなかったから向かいの店行こう。ほら榛名、タカヤくんの邪魔するなって!」
「なんだよ秋丸!ジャマなんてしてねーよ」
「いやジャマですから元希さん」
「なっ、テメー!!」
あ、また。
耳から入った阿部の声が心臓まで届いてチクリと刺さる。阿部は榛名にタカヤと呼ばれ、阿部もまた榛名のことを元希さんと呼んだ。
なんだ。
特別じゃ、ないんだ。
「榛名、いい加減にしろっ!もう先輩達あっちの店で待ってんだぞ!」
その言葉にさすがにうっと言葉を詰まらせた榛名は、観念したのか「わーったよ」と吐き捨てるように言った。
「タカヤ」
「…何スか」
「生クリームくれ」
「………」
これを食べない限りはてこでも動かないつもりらしい榛名に、とうとう阿部は根負けしたように深い深い溜め息を吐くとロングスプーンを持ち上げ、グラスに浮かんでいるチョコレートソースのかかったホイップをたっぷりと掬い取った。顎をクイと上げて促すと、素直に大口を開けた榛名の口元に阿部はスプーンを運んでやる。
え。 ちょっ、 あ、べく……っ
利央はあんぐりと口を開けたまま声にならない声で、つまり誰にも聞こえない心の声を上げる。何の恥じらいも迷いもなしに、阿部は榛名の口にホイップを入れてやった。まるでそれが習慣であるかのように、いとも自然に、である。まさか毎回こうやって榛名に食べさせていたのだろうか、所謂「あーん」の状態で。
榛名はスプーンを口に咥えたままチラリと利央に目を遣ると、フッと目を細めて笑った。ように見えた、少なくとも利央には。
「ちょっと元希さん、いい加減スプーン離して下さい」
「やは」
「ヤダじゃねーよ!離せって!」
がっちりスプーンを噛んでいる榛名の左手はいつの間にかそれを持つ阿部の手をしっかりと握っていて、阿部は二重の榛名の拘束から逃げられないでいた。
「ちょ、元希さんっ…」
また阿部が焦ったように顔を赤らめた時、スパンと小気味よい音がしたかと思うと同時にイデッという榛名の声がした。
「行くぞ榛名。タカヤくん、迷惑かけてほんとゴメンね」
秋丸、と呼ばれたその男に首根っこを掴まれ、今度こそ榛名はソファから引きずり降ろされる。いでーよ離せこのメガネッとデカい図体とデカい声で喚き散らしながら、榛名は渋々店を出て行った。
まるで台風一過だ、利央は半ば放心状態になりかけて思った。
「…悪ィ」
「いっ、いや!阿部くん…が謝ることじゃないじゃん!」
あぁ、完全にタイミングを逃した。もう今更、呼び方の話題になんて戻れない。
「知り合い…だったんだ?アイツと…」
恐る恐る訊いてみれば、阿部は眉間にしわを寄せたまま小さく頷く。
「中学の頃、シニアで一緒だったんだ」
「へ、ぇ…。阿部くんシニア出身だったんだ?あ、え、じゃあもしかして、バッテリー組んでた…とか?」
阿部はこくんと頷いた。
「お前は?何で元…榛名のこと知ってたんだ?」
「あ、それは…」
気まずい。非常に気まずい。榛名に対する感情はおよそ嫉妬や逆恨み的なものだと自覚してはいるだけに、阿部に正直に話すのも憚られた。どうしようかと迷っていると、追い討ちのように阿部の携帯が震える。
阿部は小さく身体を強張らせた。すごく嫌そうな顔でブルブル震えている携帯を見つめる。多分きっとあいつからだと予想しているのだろう。だが携帯のサブディスプレイを見た阿部のつり上がった眉は、それまでの威厳を保つことを放棄し途端にすとんと落ちた。
「準太さんからだ」
またか、と利央は項垂れる。そうだ敵は身近にもいたのだった。しかもさっきからしつこく止まらないと思っていたバイブはどうやら電話着信だったらしく、阿部はあっさりと通話ボタンを押してしまった。
「はい、あ、ちわス。あ、大丈夫です……ハイ…あぁそうなんスよ、何で分かったんスか。え?あぁいますよ、替わりましょうか?」
準太の言葉など聞こえなくても想像出来る。利央は最悪の場合を予測してこれから告げられるであろう事実に身構えた。阿部は携帯を切ると一片の疚しさもない表情で言った。
「準太さん今から来るってさ」
「……だろうね」
「慎吾さんも一緒なんだと。お前らの部ってホント仲いいな」
「……イヤんなるよね」
もう乾いた笑いすら出てこない。全く今日は何なんだ、せっかく阿部と二人きりで、今度こそ二人きりで楽しくお茶が出来ると思っていたのに、昔の旦那だの結局いつものお邪魔虫な先輩達だの。
「りおう」
りん、と鈴が鳴ったように一瞬にして周囲の喧騒が止み、その純粋な音だけが周りの空気を震わせ利央の耳に朝露のようにぴちゃんと落ちた。阿部の声は、清涼飲料水よりも素早く利央の中に溶け込んだ。
無言で顔を上げる。情けないことに、多分口は半開きのままだ。目の前でなにやら携帯をいじりながら、阿部はゆっくりと画面から利央へと目線を移した。ん、と言って腕を伸ばす阿部の意図が掴めない。
「赤外線受信しろ。ついてんだろ?」
「…え、何…」
「俺のアドレスだよ。いちいち田島経由にすんのもメンドイだろ」
アイツそんな携帯マメじゃねぇし、と阿部が言う。利央は阿部の言っている言葉とその意味を正確に判断しようと脳みそをぐるぐるさせながら、それでも阿部を苛立たせないように動作だけは俊敏に携帯を取り出した。
「お、おっけーです」
「おし」
受信完了の文字が出たと同時に、阿部がするりと胸の中に入ってきた気がした。知ることを許された阿部のほんの一部。それだけでこんなにもじわじわする。胸に拡がっていく。
「ありがと、阿部くん」
心の底からそう言うと、だが阿部はじっと利央を見つめて黙り込む。あ、阿部くん?とたじろぐ利央の目から阿部は視線を逸らさない。そして、
「りおう」
と、言った。
「え、なに?」
阿部は答えず、数秒間黙った後、また「りおう」と言った。
利央は忙しなく瞬きを繰り返す。阿部が繰り返し自分の名を、名前だけを呼ぶことに何の意味があるのか分からない。えと、えと、と目を泳がせながら必死で阿部の真意を探る。阿部が何か考えてそうしているとすれば、これは利央が自分で理解しなければいけない問題だ。
考えろ考えろ、頭脳派捕手からのメッセージを受け取るんだ。利央はどぎまぎしながらも阿部から目を逸らさずに、その垂れた大きな目を真剣に見つめ返す。
「りおう」
「ハ、ハイッ」
阿部はまるで睨むかのように利央を凝視する。また沈黙。
「…り、お、う」
「……ハ…」
そしてまた、沈黙。
「……りおう」
「………た、…」
阿部が瞬きをした。
「……たかや…」
阿部は静かにゆっくりと、満足気に微笑んだ。まるでその表情が「よくできました」と誉めてくれているようで、
「さっ、店出るか。もうすぐ準太さん達着くだろうし」
エナメルを肩から斜めにかけた阿部の後ろについてレジまでの道を歩きながら、たかや、利央は覚えたての名前を小さな声で精一杯に呼んでみた。
end