言えずのI LOVE YOU ②
「阿部くん、おいで」
慎吾さんが手招きして呼ぶと、彼は素直にこちらに歩いてきた。慎吾さんは利央のブーイングなんてまるっきり聞き流して、俺との間に座るよう彼を促す。
「お邪魔します」
「どーぞどーぞ」
「たかやー、何飲む?何でもいいよ!」
掘りごたつの中に脚を下ろした彼は、利央にビールと言ってから慎吾さんに手渡された熱いお絞りで手を拭き、それからじっと俺に視線を送ってきた。
「よ。お疲れさん」
いつもみたいに軽く挨拶をする俺に、彼はやっぱり少し遠慮がちな口調でお疲れさまです、と言った。分かってる、俺の態度がそうさせてる。
自然に振る舞ってるつもりでも、やっぱりお互いあの時のことが引っかかってるんだ。彼は俺をアシ代わりに使ったことと、あいつに殴られかけたことへの罪悪感。俺は情けない自分への自己嫌悪。だから彼が気に病む必要なんて、本当はこれっぽっちもないんだけど。
運ばれてきたビールを彼に渡すと、慎吾さんは半分中身の入った自分のグラスを持ち上げる。俺もお猪口を持って、彼と三人で乾杯の仕切り直しをした。
「利央が無理矢理呼んだんじゃない?ごめんね」
「あ、いや…無理矢理ってワケじゃ」
「ダダこねなかった?アイツ」
「…ちょっとだけ」
慎吾さんはやっぱり、と言って楽しそうに笑った。
「俺こそスイマセン、せっかく元野球部で集まってるのに部外者が来ちゃって…」
彼もつられて笑いながらそう言う。
「いやいや、俺らは大歓迎だよ。利央いい仕事したよな、準太?」
「あぁ、そっスね」
いきなり振られて少しだけ動揺したけど、何とか笑顔で頷く。
明らかに気を遣って微笑う彼に、怒ってないんだと、君は何も悪くないんだと伝えたい。だけど自分自身この苛立ちをコントロール出来ないで、賢い彼を騙すことなんて不可能だろう。余計胡散臭くなるだけだ。俺はむしゃくしゃする気持ちを呑み込むために、半分ほどお猪口に残っている日本酒を喉に流し込んだ。
俺や慎吾さんだけじゃなく全員から好かれている彼は、ことある毎に名指しされてその都度自分の飲み物を持って席を移動していた。今は入り口近くで利央と楽しそうに喋っている。その姿を遠目に見ながら俺はちびちび熱燗を呑む。
「予想以上に凹んでんなぁお前」
びっくりだわ、と慎吾さんが苦笑する。
「別に凹んでねっスよ」
「何落ち込んでんだよ?フラれたの?面と向かって」
「…フラれるも何も」
「そんな度胸ないって?」
からかうように言われて睨みつけると、全くビビってない顔でおーおー怖い顔、と茶化され、馬鹿馬鹿しくて俺は溜め息を吐き、慎吾さんに注がれた酒を呑み干した。
どれくらい時間が経ったのか正確には分からないが、飛んでいたらしい意識が戻ったかと思うと俺はひどい眠気と吐き気に襲われていて、まともに口も聞けない状態になっていた。
「準太、おい準太」
そう呼ぶ声も誰のものか分からない、というより考えることを頭が放棄してるみたいだ。もうこのまま寝たい、寝かせてくれ。ここから動きたくない。俺は立てた膝に額を乗せてぐったりと壁に凭れるので精一杯だった。
「お前どんだけ飲ませたんだよ」
「いや、なんかよく飲むな~とは思ってたんだけど」
「準太、立てるか。もう店出るぞ?」
先輩達が俺の頭上で会話しているのは分かる、ただそれは遠い世界のことみたいで、俺は客観的にその様子を眺めているだけのような気分だ。とにかく飲めと言われて水をガバガバ飲ませられて、暫くするとやって来た嘔吐感にトイレへ向かった。本当は駆け込みたかったけど、そんな無様な格好は見せられない、あの子には。思い切り吐いたら少しは楽になった。そうしたらまた水を大量に飲まされた。多分慎吾さんは俺を殺す気だ。
「準太ぁ、どうだ?歩けそうか?」
「参ったなぁ、コイツ今一人暮らしなんだろ?」
「あ、俺行ったことありますよ!送って行きましょうか?」
まぁ利央が送ってくれんならタクシー代払わなくてもいっか、と思ったその時、
「阿部くん、コイツ家まで送ってってくんないかな?」
慎吾さんの声、だ。今はハッキリと分かった。内容も鮮明に理解出来た。一瞬だけ眠気が覚める。
「あ、ハイ。俺で良ければ」
「え、えぇーっ!!何でっ!?じゃあ俺も行く!」
「俺らはこれから二次会だ。ホラ行くぞ利央」
…ちょっと待て、待て待て待て。何でこんなことになってるんだ。俺は慎吾さんを呼び止めたかったけど、少しでも顔を上げようものなら今この場で吐いてしまいそうな予感がして到底顔なんて上げられなかった。だけど声に出して言わないと。一人で帰れる、もしくは利央お前が連れて帰れって。でもやっぱり口なんて開けそうになくて、結局俺は俯いて自分の脚で立ってるのがやっとだ。ていうかこんな状態の後輩置いて次の店行くとか、なんでそんなドライなんだよ。酷くねぇかみんな。
「これ住所と目印。高架くぐって2番目の信号を左に曲がったとこのマンションって言えば分かると思うから」
「ハイ」
ごめんね、と謝る慎吾さんに、謝るくらいなら部外者のこの子にこんな泥酔野郎なんか押しつけんなよと言い返したい気持ちでいっぱいだったけど、俺に肩を貸している利央が隣でまだ俺も行きたいたかや心配だと喚いているのがうざくて、ほんと彼がいなかったらコイツの服にゲロぶっかけてやんのに、と本気で思う。
「利央ありがと。んじゃ交代な」
俺の右腕にするりと触れて、彼が俺の腕を肩に回す。
「たかや、何かされそうになったら絶対電話して。俺スグ飛んでくから!」
何かって何だよ。
「利央、ヘーキヘーキ~。準太ヘタレだからそんな勇気ないって~」
ヤマサンまで余計なこと言ってる。ヘタレで悪かったな、そんなの自分が一番分かってんだよ。
「行きましょう、準太さん」
彼が俺に話しかける。優しい声で、俺の手に触れる。
ヤバイ。なんだこれ。何でこんなことなってんだ。動悸激し過ぎだろ俺、吐き気が治まった。いや治まったんじゃない、緊張で麻痺してるんだ。
タクシーが目の前で停まる。彼が先に乗って、俺を促す。勢い良く閉まったドアの向こうでヤマサンやら慎吾さんやらが手を振ってる、泣きそうになってる利央をなぐさめながら。そしてタクシーは走り出した。
……マジかよ。マジで、二人きり、なのか?
街はまだまだ年の瀬を惜しむ人間達で賑わっていたけど、車内は外の世界とは完全に切り離された異空間になっていた。ラジオから聴こえてくる元気な声が場違いな気すらしてしまうほどに。
運転手が小さく舌打ちをした。渋滞に引っかかったらしい。この時期は飲酒検問とか事故とか多いからねぇと彼に説明している。彼は俺の隣でそうですか、とだけ返事をした。
目を瞑ったまま後ろに凭れると、頭の中がぐるんぐるん回ってきてずずず、と頭が落ちる。彼はそれに気づくと自分も背凭れに上体を預け、肩で俺の頭を支えてくれた。この子は本当、気がつきすぎる。
申し訳ないな、という気持ちはもちろんあるけど、こうなった状況を素直に喜べないほど俺は硬派でも聖人でもない。今俺は彼と二人きりでタクシーに乗っていて、彼は寝てる俺のために自分の身体を支えにしてくれているんだ。その事実は俺の中の独占欲とか優越感を気持ち良くくすぐる。
俺は右手をそっと動かして、彼の左手を探した。予想通り、彼の手はすぐ隣にあった。
俺の手が触れると彼は俺が何か訴えたいと思っているととったのか、準太さん?と呼んでくる。用なんてない、手に触れたかっただけなんだ。そう言えたら、もし言ったら、彼はどんな反応をするだろう。
俺が何も言わないので、彼は俺が酔って寝ぼけてるだけだと思ったらしく、また黙って前を向いた。俺は指を動かして彼の指と交差させるように絡めた。彼はぴくっと指を緊張させたけど、俺の指は解かれない。それどころか、やがて彼の指はおずおずと動き始め、俺の手の甲をきゅ、と握るように意思を持って曲げられた。
これは、夢か?
夢ならもう、一生覚めないでほしい。