KWNB624

二次小説置き場。ブログタイトルから連想できる方のみどうぞ

最後の日①

 

島崎×阿部

 

桜がきれいだなぁ、と誰かが言って、その声が空を仰いでるのを感じて俺も顎を上げた。こんなに空が青い時間帯に家路につくことがとても珍しくて、俺だけじゃなくほぼ全員が何となくこの時間を持て余していた。薄紅色の桜が、水色の空に溶けそうに揺らいでいる。春休みも今日で終わりだ、明日からは2年生になる。何か食って帰ろうぜーと田島が大きな声で言った。

あの人とは、春休み中、一度だけ一緒に出かけた。デートだと彼は言ったが、あれをデートと言うのなら俺は二度としたくない。まぁ、もうすることもないだろうけど。

 

どうして、あんな。

 

初めて二人で行った場所、食事しに入った店、ビルの後ろにひっそりと続く遊歩道、そこで手を繋いだことも思い出して、あの時と同じようにあの人は俺の手を取った。

季節が違うだけで、たった8ヶ月じゃ建物も風景もさほど変わりはしない。あの人の手は相変わらず俺より大きくて温かくて、ただ少し、手のひらは俺の方がマメも多くて硬くなっていた。引退してすぐの頃は、まだ同じくらい硬かったのに。

柔らかく微笑う口元も細められた目も優しい声も、何もかもが今までと同じだった。

 

俺だけが。俺の心臓だけが。

 

初めて一緒に出かけるということに戸惑い舞い上がっていたあの日、地に足が着いてる感じが全くしなくて、繋がれた手の指先に心臓があるみたいにどきどきして息も出来なかった。

嬉しさと恥ずかしさと緊張と、そんな感情が破裂しそうなほどぎゅうぎゅうに詰め込まれて胸の中で膨らんで、気道が圧迫された。苦しい、と思った。

あの時と同じ、シチュエーションはほぼ同じなのに、俺の心臓も同じようにぎゅうぎゅうして苦しかったのに、そこに入ってる気持ちはあの時とは全く違うものだった。

逢った時からそうだったし、彼が懐かしいと零しながら初めて一緒に歩いた道を歩いている間も、手を繋いだ時も、心臓が張り裂けそうで痛かった。

春から遠い県の大学に行く彼が向こうで一人暮らしを始めるために、部屋を探していたのを俺は知ってる。もう荷物はあらかた片付いたことも、3日後が引っ越しだということも、俺は知ってた。

だから本当は、分かってた。

彼が俺と逢う理由も、二人の始まりの場所を巡る理由も、

慎吾さんが俺に、申し訳ないと思っていることも。

「今日はさー、あのラーメン屋行ってみねぇ?」

田島がそう提案したのはいつも寄るコンビニとは逆の方向にあるラーメン屋のことで、そこは学割が効くことでうちの学校の生徒に評判の店だった。ただ帰り道じゃないから、部活後に全員で寄ったことはない。

「うぉっ、ラッ、ラー メン!」

「おぉいいなー、行ってみっか!」

「俺初めて行くよ、あそこ」

「俺もー!」

「みんな初めてだよな?」

口々にラーメン屋への期待を零し、全員が気持ちを逸らせて自転車を漕ぐ一番後ろに俺はついた。

あのラーメン屋には、一度だけ行ったことがある。

予備校帰りに彼が何度か迎えに来てくれて、そういう時は用事があるからと言って部の連中より先に学校を出て、回り道をして自転車を押しながら帰っていた。

その途中にあったラーメン屋で、緊張しながらチャーシュー麺を食べたことを思い出す。彼は俺とは違うスープを注文して、一口ちょうだいと言ってれんげで俺のスープを掬って飲んだ。そんな誰とでもするようなやり取りでも、彼とするには信じられないほどの緊張と動揺と動悸が伴って、だからあの人との思い出はいつまで経っても薄れてくれない。

いつもは渡ってから右に曲がる信号を、全員が左に曲がる。

「阿部、急ごう」

黄色になった信号を見て栄口が言う。だけど俺はペダルを踏み込む以上の力でブレーキを握ったらしく、甲高いブレーキ音と同時に自転車の後輪がクッと浮いた。

「阿部っ?」

声が、出なかった。

青信号に変わった車道は車が発進し始めて、ひとり渡り切れなかった俺をチームメイト達が不思議そうに振り返る。

先に行っててくれ、そう一言声を出せば連中だって安心する、それは分かってるのに、口の中が急速に渇いて喉が貼りついたように声が出なかった。

渡った交差点の向こう、歩行者用信号の隣に立っている男が、こっちを見ている。

彼は一旦俺から視線を外すと、自転車に跨ったまま俺を待っている栄口に近づき、何か話しかけて二人してこちらを見た。その瞬間、耳の中で心臓が爆音を立てたように脈打ち、その後に自分の前を通り過ぎる車の音が耳に入り、そこで初めて全く周囲の音が聞こえていなかったことに気がついた。

慎吾さんだった。

信号が青になる。俺は竦んだ脚を何とかしてペダルにかけようとしたけど、鉛の枷をはめられたように持ち上がらない。諦めてゴクンと唾を飲み込んでから、重い脚を引きずるようにして自転車を押した。慎吾さんは涼しげに微笑っていた。

「阿部!」

先頭を走っていたはずの田島が引き返してきて、俺と彼と栄口の前でキッとブレーキをかけて足を着いた。

「どした?…ん…?なんかどっかで…」

「桐青の3年の島崎さんだよ!ほら、セカンドだった」

栄口の説明に田島が「あぁ!」と大きく口を開けて納得すると、彼も「どうも」と軽く会釈をする。

「そんで、どしたんだ?栄口知り合いだったの?」

「え、違う違う。俺じゃなくて」

栄口がそこまで言った時、俺の身体がぐらりと傾いた。それが肩に回された腕によるものだと気づいた時には、俺は慎吾さんの胸に収まってしまっていて、身体が硬直してなかったら自転車は完全に倒れてしまっていただろうと思う。

「ごめんね。悪いけどこの子、借りてっていいかな」

「えっ、阿部?」

「あっ、べく んっ」

俺は声が出なかった。

「阿部って桐青の3年と知り合いだったの?何で?」

客観的に見ても何の共通点もない俺と慎吾さんの関係に疑問を持つのは当然だろう、そうこうしてるうちに、いつまで待っても追いつかない俺達を心配して花井や水谷まで引き返してきた。

「栄口どしたー?…って、あ、アレ?」

「…阿部…何やってんの?」

慎吾さんに肩を抱かれて赤面したまま硬直してる俺を、そしてさっきから一言も声を発してない俺を全員が不審に思って凝視する。見るな、頼む、見ないでくれ。一番ワケ分かんねぇのは俺なんだ。

「あっ、あああ、 べく んっ…」

三橋がどもりながら俺を呼ぶ。何だよって言いたいのに、声が出ない。何も、出てこない。心臓が喉を塞いでるみたいで、かろうじてじっと三橋の目を見ることで返事に代えたけど、三橋は俺に睨まれたと思ったのかビビって目を逸らしやがった。

それでも何かグッと決心したように唇を引き結ぶと、また顔を上げて俺に食いつかんばかりの勢いでラーメン、とだけ言った。うん、分かってる。お前の言いたいこと、伝わってるよ。

「阿部は俺達とラーメン行くんだよ!」

田島が子供みたいにはっきりと言う。駄々をこねるというよりもそれは、その場の雰囲気に流されるといった誤魔化しは通用しない子供故に真っ直ぐな正論で、先に約束したのは俺達だ、という尤もな主張だった。

「田島、わざわざ島崎さん会いに来てくれたんだから」

「阿部は?」

宥める栄口の声は聞かずに、田島は俺を見て言う。

「だって阿部、なんも言ってねーじゃん。ラーメン食いに行くんじゃねーの?それともシマザキと帰んの?」

俺が何も言わないから、田島は心配してくれてるんだ。俺が慎吾さんの誘いを断れずに困ってるかもしれないって、そう思ってるんだ。

「阿部の意見が一番大事だろ」

田島は慎吾さんを真正面から見上げてそう言った。何なんだよコイツ…俺より小せぇクセに、俺なんかよりずっと大きく見える。

慎吾さんは「そうだな」と溜息のような苦笑を漏らして、そして俺の肩から手を離した。

「俺も突然来たワケだし、勝手に借りるも何もないよな。ごめん隆也」

隆也、と呼ばれて、また胸がぎゅっと詰まった。

隆也ン家の近くのコンビニで待ってる、そう耳元で囁くと、慎吾さんは「じゃあ」と言ってその場から去ろうとした。

「…っ田島、」

俺は弾かれたように顔を上げると、さっきまで固まって動かなかった手を片方だけ自転車のハンドルから離して、慎吾さんのジャケットの裾をはっしと掴んだ。少しだけ驚いたように振り返る慎吾さんの方は見ずに、田島の目を真っ直ぐに見返す。

「…悪ィ。…ラーメンは、また…今度に、する」

「阿部」

「ごめんな」

じゃあ明日、と言って栄口が切り上げてくれたので、みんなは再び自転車に乗った。まだ不満げな田島と不安そうに俺を見る三橋の背中をポンと叩いて、行くよ、と栄口が言う。三橋はまだ首をこっちに向けたまま自転車にのろのろ跨るので、俺はひとつ息を吐いて慎吾さんのシャツを離して三橋に近寄った。

「オイ三橋、ちゃんと前向いて乗れ!万が一コケて怪我なんかしたらっ…」

「うぁっ、ハッ、ハイッ!」

あんだけ置いてかれる子供みたいな目で俺を見てたクセに、俺が近付くとオドオドびびって逃げるように背を向ける。漸く走り出した三橋達の背中に手を振ってはたと我に返り、そうだ、慎吾さん、と思い出した。

後ろに、いる。

慎吾さんが。

「…いける?」

みんなが角を曲がって完全に姿が見えなくなってから、慎吾さんはそっと俺に声をかけた。

俺は、小さく頷いた。