好きだったひと、好きなひと
準太×阿部/大学生設定
やっぱり行かない方がいいんじゃないかなんて後戻り出来ないところまで来て思うあたり、自分の優柔不断さに嫌気が差す。半年前まで恋人だった人の家で鍋、しかも今現在の恋人も一緒にだなんて、無神経にもほどがある。
「隆也、あった?」
準太の声に阿部は僅かに肩を強張らせた。手にしていたプラスチックのパックがペキ、と小さく音を立てる。
「あ、それでいいじゃん。みんなネギ好きだから2つくらいいるんじゃない?」
準太が阿部の持っているのと同じ刻み葱のパックを冷蔵棚から取り出す。
「ぽんず取ってきたよー」
ガラガラとカートを押してきた利央のカゴにそれを放り込むと、準太は阿部の手から葱のパックをスッと取りそれもカゴに入れた。
「じゃ、行くか」
「楽しみだねー!先輩達と会うのすっごい久しぶり~」
無邪気にはしゃいでいる利央はもちろん、彼の先輩達も知っている。阿部が慎吾とつき合っていたことも、そして今は準太とつき合っている、ということも。 だがそんなことは当事者以外にはどうでも良いのだろうか、元々阿部を気に入っていた山ノ井は今までと変わらず阿部も呼ぶよう準太に連絡してきたらしい。準太からそのことを聞かされた時、当然阿部の頭に真っ先に思い浮かんだのは慎吾のことだった。
行きたくないなら無理して行かなくていいよと言われ、思わず首を振ってしまってから後悔した。ここは行きたくないと言うべきだろう、なのに行くと言ってしまった。自分の本心が分からなくて、準太の顔が見られなかった。
アパートに着くとすでに山ノ井と本山は部屋で寛いでいた。
「おっそいじゃん~。具材なかったら始めらんないだろ~」
「いやもう始まってるじゃないスか!」
フローリングに転がるビールの空き缶とこたつに懐いている山ノ井の赤い顔を指差して利央がツッコむと、同じくこたつに入ったまま本山が声を上げて笑った。
「あー阿部くんいらっしゃ~い」
「あ…こんばんは」
チーズ鱈をもぐもぐ食べている山ノ井に名前を呼ばれ、利央と準太の後ろから小さく挨拶をして部屋の中を見渡す。と同時に、奥の部屋から慎吾が顔を出した。目が合った瞬間全身の血がさっと冷え、そしてすぐに頬が熱くなるのを自覚する。
「いらっしゃい。買い出しお疲れ」
こんな他人行儀な挨拶は、彼は自分の後輩にはしない。つまりこれは阿部に向けられての言葉で、それが分かるから阿部もただぺこりと頭を下げるしか出来ない。
「お邪魔しまーっす!」
「邪魔しまぁす」
二人の後について靴を脱いで上がり、とりあえず買ってきたものはダイニングテーブルの上に置く。本山に渡された缶ビールを一口飲んでから、慎吾はステンレスの吊り棚からまな板を取り出した。
阿部はスーパーの袋からさっき買ってきた白菜やえのきを出し、シンクの下を開いてざるを取り出し水洗いを始める。その一連の動作を、準太が見つめていることには気づかずに。
「あれーそういや和サンはぁ?」
「バイトがあるから遅れて来るってさ」
「和己のバイトって何だっけ」
「塾講かカテキョーかそんなん」
「うわっ超似合う!河合センセーとか言われてそう!」
「そりゃ言われてるだろな、河合なんだし」
自分達西浦のメンバーも仲は良いし高校を卒業してもよく集まるが、桐青もずいぶん仲は良い方だろう。同学年だけではなくこうして下級生も交えて集まるのは、阿部たちにはないことだった。
「はーいじゃあ今年も一年、」
「お疲れ様でーしたー!」
ぐつぐつ煮え始めてきた鍋を囲んで山ノ井と本山の音頭に合わせて、全員で乾杯を唱える。
「ちょっとモトさんヤマサンッ!俺まだ乾杯してもらってないよっ!?飲み始めないでよー!」
「えーもう阿部くんとしたからいいし」
「仲良く準太と乾杯すれば?バッテリーじゃん」
「え、バカがうつるからイヤっスよ」
みんなヒドいよぉ!と喚く利央を宥めるのは阿部の役目で、まるで保育園の先生のように利央の器によそってやるのを止めるのは準太の役割だった。以前はこれが慎吾だったが、今はそのやり取りを静かに笑って見ているだけで、それ以上の関わりはない。別れた以上、そしてその仲間内で新たに阿部の恋人になった人間がいるのなら、当然といえば当然の距離だ。それを寂しく感じる方がおかしいのだと阿部は自分自身に言い聞かせ、グラスを持つ手に力を込めた。
「準太さん、豆腐入ってます?」
「いや、ない」
「たかや俺もないー!」
「阿部くん俺もないー!」
「ヤマちゃん…」
当然のように器を差し出す利央と山ノ井に阿部は苦笑しながらも、一切れずつ入れてやる。ついでに全員に配ろうと腰を上げ、本山の器に豆腐を入れてふと慎吾に目をやった。
「慎吾さん、は?」
「ん、入れてくれる?」
他のみんなと同じように慎吾が器を差し出し、阿部も同じように豆腐を掬って運ぶ。たったそれだけの動作が、頭の中で必死に順序を並べ立てて手が震えないようにするのが、とてつもなく難しく感じた。
ビールも底を尽いてきた頃、充電中でベッドの上に乗ったままの携帯から着信音が流れた。慎吾はこたつから出てベッドに乗り、着信画面を見て一瞬動作を止めた。それからすぐに携帯を充電器から外してベッドを降り、もしもし、と言いながら玄関の扉を開けて外に出ていく。
「あれは女だな」
「えー、慎吾さん彼女いたんスかっ?」
「そりゃいてもおかしくないんじゃない?もうフリーんなって半年経つんでしょ?」
「ちょ、ヤマちゃん」
敢えて空気を読まない山ノ井の発言に、阿部も準太も顔を上げられない。慎吾とは話し合って別れたし、準太とつき合うことになったのはその後で、誰にも疾しいことはないはずなのだ。
「別に気にすることないってぇ。今日だって阿部くん誘うの慎吾イヤがんなかったしさ。まぁさすがに俺も気利かせて準太呼ぶのはやめとくかって提案したけど」
「いやソコ気利かせるとこじゃないだろ」
「…ヤマサン俺に嫌がらせしてるだけでしょ」
「あらやだバレちゃった」
冗談のやり取りのような会話の流れで、何とか阿部も愛想笑いで話に混ざる。山ノ井の言うとおり、もう別れたのだから気にする必要はないし、今慎吾に新しい恋人がいたとしても気に病む資格は自分にはないのだから。
再び話題が鍋に戻った頃、携帯を閉じながら慎吾が戻ってきた。
「お~色男おかえり~」
「は?なんだソレ」
「ヤマちゃんが絶対女だって」
あぁ、と慎吾は意味に気づいて、笑いながらゼミの友達だよと言う。
「えー、ゼミ一緒だと別れた時気まずくない?」
あ、でも今も似たようなもんか。という言葉が一瞬にして全員の頭によぎる。さすがに声に出しては言わなかったが、出さないからこその心の声とでもいうのだろうか、この沈黙がそれを証明していた。
「あっ!」
山ノ井バリア周辺の窒息しそうに重い空気を破ったのは利央の焦った声で、そのすぐ後に準太があちっと声を上げる。
「準太さん!」
手が滑ってしまったのだろう、利央の器の汁が準太の右の手の甲に派手にかかっていた。
「じゅ、準サンごめん~っ!!」
「りおーテメェ…」
「準太さん、冷やしましょう」
誰よりも先に立ち上がり準太の腕を引き上げると、阿部はまっすぐシンクに向かい水道から水を出した。
「痛いですか」
「あ…、いや、ヘーキ」
準サンごめんねぇ~と利央が半泣きでこたつを拭いているが、それは無視する。準太に手はこのままでと指示すると、阿部は手を拭いて玄関隣の棚に向かった。
「慎吾さん、アロエの塗り薬借りますね」
迷いなく右側の上から三段目の引き出しに手をかけたところで、自分の言葉に硬直した。
恐らく、止まったのは自分だけではない。水道から流れる水の音だけが確かに動いていたけれど、頭が真っ白になり身体は棚の引き出しを開けたところで止まってしまっている。
当たり前のように薬の入っている場所に行き、中に何が入っているのかを知っている、自分の部屋でもないのに。それがどういう意味を指すのかなんて、いくら鈍感な阿部でも分からないはずはなかった。
「なかった?」
慎吾の声に金縛りから解けたように、阿部は固まった思考を再起動させる。
「あ、ありまし…た」
「そ?」
引き出しから塗り薬を取り出し、水道を止めタオルで準太の手を拭き薬を塗る。顔は俯いたまま、一言も言葉は交わさずに。
やっぱり来なきゃ良かった。本気でそう思った。
あーもうビールねぇなーと本山が言い、まだ飲み足りない人ーという山ノ井の言葉にこたつ組が全員手を上げる。
「じゃあ準太行ってらっしゃーい」
いつもなら何で俺なんスかと反抗するところだったが、準太はハイと素直に頷いて玄関に向かう。その後を、阿部もついて出て行った。
無言でビールをカゴに入れる準太の後ろで、阿部は何も言えずにただ黙って立っていた。
「チューハイは?」
「……い、いらない、です」
「そ」
床に置いたカゴを準太が持ち上げようとすると、阿部は慌ててそれを取り上げた。そのために来たのだ、火傷した準太に持たせるわけにはいかない。準太は阿部の意図を汲み取ったのか、 阿部の前を歩いてレジに向かった。大量に買ったビールは、袋2つに分けられた。
「ひとつ持つよ」
コンビニを出たところで、当然のように両手で持っていた阿部に準太が手を伸ばす。
「いいです、これくらい持てます」
「俺だって持てるよ。二人で来たんだからひとつずつでいいだろ」
「…で、でも準太さん、火傷したじゃないスか」
投手に負担なんてかけさせられないのは、阿部の性格上今に始まったことではない。そこは遠慮せず突っぱねる。
「じゃあ、左手で持つから」
「……」
「貸して」
怒っている。明らかに準太は怒っている。笑顔がない、言葉は優しくても温度がない。当然じゃないかと思った。前の恋人の家にのこのこついてきて、 いかにも自分はこの部屋に入り浸ってましたとでもいうように薬を取り出した。自分でも気づいていなかったが、慎吾とあの部屋で 過ごした時間は確かに阿部の中に滲み付いていて、今も全く消えていなかったのだ。それを準太に見せつけるような振る舞いをして、不快に感じないはずがない。
「……」
「貸して」
二人になれば、優しい言葉をかけてくれるとでも思ったのだろうか。怒ってないよと、言ってもらえると思っていたのだろうか。準太がいつも優しいから、阿部が言葉にする前にすべて察してくれるから、さっきのことも笑って許してくれると、どこかで期待していたのかもしれない。だからこんなに、準太の冷たい態度が心に痛いのだろう。
泣きそうになるのを懸命に堪えて、右手に持っている袋を差し出した。準太は袋の持ち手をクンと引っ張ると、そのまま阿部の指ごと掴んで力強く引き寄せた。
えっ、と言う間もなく、唇が重ねられる。瞬きも忘れるくらい突然のことだった。それは多分、一瞬の出来事だったと思う。準太の唇は、すぐに離れていった。
「……じゅ…」
準太は眉を顰めたまま、ばつの悪そうな表情で阿部を見下ろす。何が何だか分からなくてただ絶句したままの阿部から一度ふいと顔を逸らすと、またちらりとこちらを見て、
「嫉妬。」
開き直った顔でそう言った。
情けねーな、と呟いて、それから阿部の知っている優しい声で、ごめんな、と言う。謝ることなんて、準太には何も非はないのに。悪いのは自分で、準太を傷つけることばかりしているのに、 怒られて、嫌われても当然のことをしてしまったのに。
「やっぱ隆也呼ばなきゃ良かった…って、正直思ってんだ。カッコ悪ィとこ見せてごめんな」
カッコ悪くなんてない、準太は全然悪くないのに、彼は阿部を責めることはしない。阿部はぶんぶんと頭を振った。
「でも呼ばなきゃ慎吾さん意識してるって思われんのも癪だし…って思ったけど、無理矢理隆也連れてきた時点で意識しまくってるよな。ダセー…」
意識しているのは自分だ。自分から慎吾に別れを告げたくせに、準太とつき合っているくせに、まだ慎吾のことが気になってしまう。それを準太に知られたくないと思いながら、それでも 慎吾が自分を拒まなかったという事実を聞いて喜んでいる自分がいて、そんな自分が嫌で嫌でしょうがない。
俺と、つき合わない?
慎吾さんとつき合ってるときから、ずっと好きだったんだけど。
慎吾と別れて落ち込んでいた阿部に、準太はそう言ってきた。自分から別れを切り出しておきながら想像以上に参って、女々しいけれどよく一人になったら泣いていた。準太の前では一度も泣いたことはなかったけれど、赤く腫れた目元に添えられた指は冷たくて気持ち良かった。
同じ高校で同じ部活で、卒業後も親しくしている慎吾と準太の両方とつき合うなんて、さすがにそれは抵抗があった。自分のせいで二人の仲がこじれたらどうしようと思う気持ちと、そう考えること自体思い上がりなんじゃないかという気持ち、両方の葛藤に悩んで、だけど結局は差しのべられた手に縋ってしまった。準太が、優しかったから。
「準太…さん…。俺、俺…」
準太のことが、好きだ。
嘘じゃない、誰の代わりでもない、準太のことが好きだ。
嫌われたと思ったとき、怖かった。好きだと言ってくれた準太の気持ちが自分から去ってしまったと思ったとき、本当に後悔した。ずっとずっと、傍にいてほしいのにと思った。
「隆也…俺、気にしてないから。隆也が今つきあってるのは俺だし、隆也の気持ちが揺れるとも思ってないから」
だから、俺のこと信じて。
準太はいつも、阿部の一番ほしい言葉を言ってくれる。ずっと見てたから分かるよ、と言う。煮え切らない態度も、未練がましい性格も、慎吾のことを、嫌いになって別れたんじゃないということも。 全部知ってるから、気にしなくていいよと準太は笑った。
言葉にして伝えたくて、自分より背の高い準太の顔を見上げて唇を開く。好きです、準太さんが。そう言おうとしたのに、
揺らぐ視界の中、近づいてきた準太の顔があんまり綺麗で、頬に手を添えられて阿部はまた目を瞑ってしまう。吐息が濡れて、舌が蕩けそうなくらい熱くなった。
玄関を開けると大きな靴が綺麗に揃えて置かれていた。準太はすぐに誰だか気づき、「和サン」と嬉しそうな声でまだ見えない姿を呼ぶ。
「おー準太、やっと帰ってきたか」
「え?」
「お前コンビニで買いモンしてたろ?来るとき見たよ」
山ノ井の隣で鍋をつついていた河合は、そう言ってビールをぐいっと飲んだ。
「だったら入って声かけてくれりゃ良かったじゃないスかぁ」
「いやーだってなぁ…あんなに店の前でイチャイチャちゅーされてちゃ声かけらんないだろ」
「なっ…!?」
その一言に、場は騒然となる。
「準太サイテー!!道端でチューとかっ!!路チュー禁止!!」
「キモい!!なにコイツっ、イケメンだったら何しても許されると思ってんだろー!」
「たかやぁー!なんでッ!?なんでそんなハレンチなことしてんのっ!?たかやの純潔返してよ準サンーッ!!」
「ちがっ、ちょ、和サン!?なんつーことを…っ!」
わぁわぁ非難される準太の後ろでおろおろしながら、とりあえず阿部は準太の脱いだコートをたたんで自分のブルゾンの上に載せた。それから糾弾されながらもこたつに入る準太の隣に座る。こたつ布団に隠れて手を繋いでいるのがばれませんように、と思いながら、慣れない左手でグラスを持ち上げた。
end