夏が終わる
カワノベ
りん、と柔らかな音が耳に届いて、目が覚めた。
次に来ると期待した涼しい風は流れてこず、代わりに真昼の陽射しと同じ強さで鳴く蝉の声が、まどろんだ意識の中に外側から割り込もうとしてきた。
「…あっつ…」
眠っていた時は全く感じなかった湿度が一気に全身に纏わりついて、じわり、じわりと薄手のはずのシャツを重くする。漸く持ち上がった瞼の下の眼に映ったのは古くて広い板張りの天井で、肌に感じる畳の感触に、まだぼんやりした頭で阿部は暫しの記憶喪失からゆっくり、ゆっくりと覚醒していった。
また風鈴が鳴った、だが風は入ってこない。阿部は風鈴の音のする縁側へ首を捻ってみた。
明るい光の射す庭に、麦藁帽子を被った男の後ろ姿がある。肩まで捲り上げられたTシャツの袖から伸びる逞しい二の腕はしっかりと焼けていて、その手の中のブルーホースから飛び出す水が太陽の光を反射してキラキラしていた。
「…矢野さん」
「おー、起きたか」
中から呼ぶと、矢野はこちらを振り返った。だが屋外の明るさと帽子のつばの影で表情がよく分からない。阿部は身体を起こしてこたつ机に手をつき左膝に負担をかけないよう立ち上がると、のろのろと縁側に近づいた。ここまで来ればさすがに矢野の表情は分かる。微笑っていた。
「俺どんくらい寝てました?」
「ンな時間経ってねーだろ?俺が水やり始めるちょっと前に寝たから」
つまり昼に冷や麦を食べてから眠ってしまったらしい。すんませんと謝ると、いいって、と矢野はまた笑顔になった。
今日は夏休み最終日で、他部との調整上グラウンド使用は14時までだったから、病院を出た時点でもう練習には間に合わないと阿部は判断した。取り出した携帯の画面には封筒のマークがちょこんと表示されていて、監督に連絡をした後阿部はその足でメールの送り主の家までやってきたのだった。
「暑くねーか?」
矢野が、ホースは目の前の野菜の葉に向けたまま声だけを阿部に向けて訊く。暑い、だが阿部は平気ですと言った。
「暑かったら戸閉めてクーラーかけていいぞ」
「大丈夫です。あんまクーラーあたりたくねぇし」
「あーそうだよな」
こちらを向いて矢野がニカッと笑うと、こめかみから流れ出た汗が頬を伝い首筋を滑るように落ちて、白いTシャツにすっと吸い込まれていった。
「あー、しっかしあっついなー。肌ジリジリ焼かれてるみてぇ」
梅雨時期に比べればだいぶと湿度も下がったかもしれないが、それでも肌を撫でる空気はじとりと重く不快な感触を残し、加えて真上から容赦なく照りつけてくる太陽は帽子程度の防御で撥ね退けられるほど柔らかいものでもない。宇宙にあるはずの火の塊は、まるで数メートル先にまで迫っているのではないかと思ってしまうほど硬質な熱で人肌を焦がす。
焼けた矢野の腕は逞しく筋張っていて、これでもかなりの練習量をこなしてきたと自負している阿部の腕よりも遥かに太い。リトルからやっていても、一番身体が作られるのはやはりこれからなのだ。二年の差はこうしてみると歴然としている。そんなことを無意識に考えていると、なに難しい顔してんだ、矢野が不思議そうに訊いてきた。
「涼しそうだなと思って」
「全然涼しくねーよ。汗ダラッダラだろ」
「そいつらですよ」
そいつら、と指差す先には、矢野家の庭で鬱蒼と生い茂る植物の緑がシャワーの水を浴びてわっさわっさと悦んでいる。きゅうり、なすび、トウモロコシ、そしてゆらゆら揺れるひまわり達が我も我もと葉をなびかせ水を求めては、注がれるそれに満足げに濡れて光っていた。
「夏は毎年俺が水やりやらされんだけどさ、今までなんか俺部活あったのに帰ってからやらされてたんだぜ。晴れが続いたら朝もやれとかばーちゃんに言われてよー、水やってからじゃねぇと朝練行かしてもらえねーの」
「それは辛いッスね」
「だろ?けどこんな炎天下にばーちゃん立たすワケにもいかねーしなぁ」
まぁ、今年の夏はもう忙しくねーからな。
そう言った矢野はやっぱり向こうを向いていて、どんな表情をしているのか窺うことは出来ない。
美丞との試合で阿部の夏は終わり、その後美丞の夏は終わった。後日、怪我をした阿部の家にどうやって調べたのか矢野が家まで来て謝り、それから矢野と連絡を取るようになった。
なぜ矢野が謝りに来たのか、阿部には分からない。試合上の怪我なんだからしょうがないでしょうと言えば、そうだよな、と矢野は頷いた。
それから数日も経たないうちに病院に迎えに来られて、家に連れて行かれた。ただ何をするでもなく野球の話をしたり川島が遊びに来たりして、今日までに阿部が矢野の家に来た回数は片手以上にのぼる。 知り合ってから決して長い付き合いでなく寧ろまだ数週間だというのに、信じられないほど矢野の家は心地よくて安心出来た、知らないうちに昼寝してしまえるほどに。
「あーもーあっちー!」
「あ」
声のした方を振り返ると、台所の引き戸を開けて川島が部屋に入ってきた。
「あれ、起きたのか」
そう言うということは、阿部が寝ている間に川島はこの家にやってきたのだろう。
「お疲れさん」
「どっか行ってたんスか」
「アツシのばーちゃんとデート」
川島の返事に矢野はぶはっと噴き出す。またですかと言うと、俺こいつのばーちゃんに愛されてっからさぁ、川島は真顔で言った。
「アツシがいても俺指名だからな。八百屋だのスーパーだの郵便局だのって」
「ばーちゃん、じーちゃんが死んだらコウと再婚するっつってるからな」
「じゃあ俺初婚でアツシのじーちゃんかよ。それキツくね?」
また矢野が声を出して笑い、川島も笑った。
「で、これがお駄賃」
そして手に持っていたアイスの袋に指を入れてオレンジ色のボールアイスを摘み出すと、阿部の唇にぴとりと押し当てる。言ってくれれば口を開けるのに、そう思ったのが顔に出たのか、川島は怒んなって、と楽しげに笑った。
素直に口を開けると押し込まれたオレンジ色のアイスは見たまま想像したとおりの味で、冷たさと一緒に急速に口内に染みこんでくる。川島の顔を見上げると、彼は溶けて指についたアイスを舐め取っているところだった。
「あー涼し」
その声に顔を上げれば、麦藁帽子を左手に持ちホースのシャワーヘッドを天に向けて右腕を上げた矢野の上から、霧雨がさわさわと降り注いでいた。 矢野の頭と噴水の頂上との間に小さな虹が生まれて、その虹をいくつもの水の粒子が通過して矢野をしっとり濡らしていく。
「お前らもやるか?気持ちいーぜ」
おー、と川島は答え、阿部はこくんと頷いた。矢野は二人の前まで近寄り掴んでいたホースを再び上向かせる。と、水は彼らの頭上へと綺麗な弧を描いた。
「うあーきっもちー」
「だろ?」
水を浴びるというよりひんやりとした冷気に包み込まれるような感覚で、頭と身体の火照りを改めて実感した。肌の表面だけ急速に温度を奪われることで、身体の熱が高いことに気づく。
目を閉じて二つの相反する感覚に静かに感動していると、フ、と霧のカーテンが消えて、すぐにまた肌が燃え出した。 物足りなさに目を開けて顎を上げ、あからさまに不満気な表情で矢野を見上げる。ん?と笑ったまま再び水やりに戻りかける矢野の服の裾をクンと引っ張ってじっと睨み、阿部は口を開いた。
「もっと」
「あ?」
「かけて」
「…、……っ、……!?」
その台詞に矢野は思わず言葉を失い目を見開く。するといつの間に腰を上げたのか矢野の隣に立った川島が、直立不動になった矢野の手首を掴みホースの向きをぐるっと阿部に向けた。 途端、阿部は真正面から全身にシャワーを浴びた。
驚いて声を上げると矢野も我に返り、慌てて川島の手を払い散水ノズルの噴射を止める。
「おまっ、コウ!何やってんだ!」
突然そんなことをしてきた川島とわたわた焦る矢野を何すんですかと声を荒げ交互に睨み上げた阿部は、だが矢野の表情を見て絶句した。彼は耳まで真っ赤に染めて、濡れた阿部の姿をまた驚いたように見下ろしていたからだ。
「…矢野、さん…?」
「アツシクンてばやーらしーい」
「!!」
川島の冷やかしに我に返った矢野は更に慌て、お前代われと怒ったように川島にホースを押しつけると、履いていたサンダルをひっくり返す勢いで濡れ縁に上がり部屋の中へと入っていった。その後ろ姿を見てくつくつ笑い続ける川島を解せない目で阿部は睨み付ける、だが目が合うと、阿部の濡れ鼠のような姿に川島は更に笑った。
「あんた笑い上戸ですか」
「だっておもしれーんだもん、お前もアツシも」
「全然おもしろくねーです」
「おもしれーって」
それでもやはり何がおもしろいのか分からず、阿部は不機嫌な表情のままぷいっと川島に背を向ける。顔が見えなくてもまだ笑っているのは分かっていたけれど。
「おい、こっち向けよ」
誰が向くか、心の中で反論して無視を決め込む。誰かさんのせいでぐっしょり濡れた髪から雫が垂れ落ちて頬を濡らした。
「阿部。あーべって。ターカちゃーん」
それでも頑として無視していると、アイスやるから、川島は幼い子へするような交換条件を出してきた。そんな子供騙しに引っかかるわけないだろうと言ってやりたくて仏頂面のまま勢いよく振り向くと、 またさっきのように唇の真ん前まで今度は白いボールアイスが迫ってきていて、だから阿部は咄嗟に口を開けてしまった。だが川島はすっとアイスを持った手を引くと、きょとんとした阿部の表情に幼いいたずらな笑みを浮かべる。そして「俺にはねーの?」と阿部に訊ねた。
「は?なにが」
「俺には言ってくんねーの?」
「なんて?」
やはり全く質問の意図が掴めなくて眉を顰め阿部は首を傾げる。川島は抓んでいるアイスが溶けて手のひらに伝うのを舌で掬い取りながら目だけを阿部に向けて言った、
「さっきアツシに甘えて言ったみたいに」
もっと。とかさ。
え?ともう一度訊き直そうとしたが、ドタドタと後ろから迫ってきた足音と共に突然目の前を白い何かに覆われて阿部は出かけた言葉を飲み込んでしまった。
「オラ、頭拭け。んでコレ着替え」
真っ白になった視界に矢野の声が降ってきて、柔らかな肌触りからそれがタオルだと分かる。そして畳に落とされる乾いた音と僅かな振動に、矢野の言う「着替え」が放られたことも分かった。
「オマエ水やっとけっつっただろ」
「あーわりわり」
またしつこく笑い出した川島の手からホースを奪い、矢野は水やりを再開する。
頭をがしがしと拭いた後、肌に気持ち悪く貼り付いたシャツを脱いでタオルで簡単に身体を拭いてから、阿部は隣に置かれた白いTシャツを頭から被った。
さらりとした感触とふんわり温かい太陽の匂い、きっとさっきまで干されていたのだろう。洗濯されたはずなのにどこか矢野の匂いがするようで、まるで矢野の自転車の後ろに乗せられて落ちないように掴まっている時のような錯覚を阿部は覚えた。
懸命に鳴き続ける蝉の声がうるさい。合成写真のように空は真っ青で、雲は油絵のように立体的で真っ白だ。だけどこんなに穏やかな夏はここ数年覚えがない。リトル時代もシニア時代も、そしてついこの間までずっとずっと野球漬けだったから。
おそらくこの二人もそうだろう。特別な夏の喪失感は一年生と三年生とでは全く違うかもしれないが、野球をしていない、することが出来ない今この瞬間はきっと同じ気持ちだろうと思う。
「あっそーだ、花火買ってきたから夜やろーぜ」
「おーいいな」
こんな風に、この二人と夏の終わりを過ごすとは0.1%も想像していなかったのに。
またりん、りんと風鈴が鳴る。涼しいとは言えないぬるい風が、真新しい感触のTシャツを通り過ぎる。
明日っから二学期かぁと川島が伸びをした。
end