KWNB624

二次小説置き場。ブログタイトルから連想できる方のみどうぞ

そんなつもりもないくせに

 

矢野×阿部/ヤノカワ教師パラレル

 

夏の大会も終わり夏休みもあと残りわずかとなった今日は、練習を16時で上がることになっていた。溜まった宿題を仕上げつつ夏休み明けすぐのテストに向けて勉強すると前々から監督にも顧問にも言われていたのだ。

「じゃーいつも通り、各自得意教科を教え合うことー!」

花井の号令に従いいくつかのグループに分かれ、まずは宿題を仕上げにかかる。阿部は栄口と水谷と向かい合って数学を教えていた。

「だっからこの式入れるんだっつってんだろ!余計なことしねーで素直に当てはめろバカ!」

「だって!だってさっきはこっちの式入れたじゃん!違いが分かんないよ~!」

「見りゃ分かんだろが!」

分かる分からないと言い合っていると教室のドアが開いて、そちらに目をやった誰かが「あ、ヤノジュン」と言った。阿部の怒声がぴたりと止む。

「あれ、志賀先生いねーの?」

ここにいるって聞いたんだけど、と矢野は言った。

「監督と出てったから打ち合わせじゃないスかねー」

「そっか、サンキュ」

「あっ、待って!」

あっさりドアを閉めようとする矢野を引き止めたのは、阿部ではなく栄口だった。

「先生、ちょっと分かんないとこあるんですけど。教えてほしいな~」

阿部に泣かされる水谷を憐れんでか、栄口は矢野に助け舟を求める。矢野はちらりと阿部を見た。

「阿部でも分かんねぇの?」

「教え方が分かりません」

「ヤノジュン~、阿部ひどいんだよぉ。俺のことクソバカって言うの!」

「だってバカだろ」

「阿部!」

いじめっこといじめられっこのような(そして幼稚園の先生のような)三者三様のやり取りに矢野は苦笑して、教室の中へと入ってきた。阿部の隣の席の椅子を大きく引いて腰掛ける。軽く膝が当たり、左半身がビリッと緊張した。

「どれ」

「これです~」

「あぁこれか、これはなー」

いつもはたとえ数学準備室に二人きりでも、こんなふうに隣り合って座ることはない。矢野は必ず阿部の向かいに座るから(二人しかいないのに隣同士で座る方がおかしいのだが)、矢野の横顔がこんなに近くにあって、腕も何度かぶつかって、近すぎる距離に心臓が煩く騒ぐ。矢野にとっては何でもない、ただ生徒の隣に座るだけの行為でも、阿部にとっては動揺するだけの理由は充分にあるから、顔が赤くなっていないか心配になった。

「あ、あーあー!分かったかも!」

「おし。んじゃ行くぞ」

「せんせーありがと!」

教室から出て行く矢野の後ろ姿を目で追う。ドアが完全に閉まると、阿部は反射的に椅子から立ち上がった。

「質問し忘れたから行ってくる」

「えっ、質問あったの?」

悪ィ、と栄口にだけ謝り、阿部は今しがた矢野の出て行ったドアを開けて左右を確認する。左の廊下にまだそう遠くなっていない矢野の背中を見つけ駆け出した。

「先生!」

阿部の声に振り返った矢野は、他の生徒に対するのと何ら変わらない表情でおぅ、なんだと言った。

「今日も打ち合わせですか?」

「あー、今日は自主出勤。休み明けのテスト作りだよ」

「そう、ですか」

「今日は練習は終わりか?」

「はい。あとは宿題終わるまで勉強会です」

じゃあ深夜までだな、矢野は楽しそうに笑って数学準備室のドアを開けた。

「戻んねえでいいの?」

一緒に入ろうとしてそう訊かれ、一瞬言葉に詰まる。

「し、質問があって…」

「あ、そ」

それが嘘か本当か、矢野は分かっているのだろうか。たとえ嘘だと見抜いていても、問い詰めたりはしないだろうけど。

中に入ると充分に冷やされた空気に迎えられる。さっきまで蒸し暑い教室にいた阿部にとっては天国だ。だが矢野はすぐに冷房のリモコンがついている壁に向かい、冷房の電源を消した。

「寒いんですか?」

「いや?別に」

「だったらつけてていいですよ、気遣わないでください」

阿部の体調を気遣ってなのだろうが、不純な動機で矢野についてきた阿部としてはそんなことをされると心苦しい。

「現役の高校球児の体調崩すワケにいかねーだろ、お前がチームの司令塔なんだから」

「でも俺が勝手についてきたんだし」

「あー分かった分かった」

矢野は苦笑しながら自分のデスクチェアの背もたれにかかっていた白衣を取ると、それを阿部にばさりと投げた。

「それ着とけ。直では風当たんねえから」

「え…」

白衣、矢野の。

普段あまり矢野は白衣を着ることはないが、それでもごくたまに着ている。その、白衣を。

「え…で、も」

「やなら冷房消す」

「っ…着ます!」

慌ててシャツの上から袖を通す。絞られていない袖口は阿部の指を半分くらい隠して、着慣れない白衣とそれが矢野のものであるという事実に心臓が抓まれるみたいにきゅっとした。

「質問あったんだろ?」

「あ…」

咄嗟の口実だから教科書もプリントも持っているわけがない。阿部はばつが悪そうに唇を引き結ぶ。

「…忘れました」

「なんだそりゃ」

矢野は笑って、プリントの山を阿部の前に置いた。

「じゃ、思い出すまで俺の仕事手伝え」

「何ですか」

「三年のテスト。クラス毎に分けるから…40枚ずつあれば余裕だな」

これを8つ作って、と言って矢野は阿部の向かいに座る。

「それは?」

「補習の採点。田島と三橋はギリギリだったぞ」

「…すいません」

なぜか申し訳なくて謝ってしまった阿部に、あはは、と声に出して矢野は笑った。

プリントを一枚一枚、出来るだけ時間をかけて分けていく。矢野の赤ペンがサラサラと用紙の上を滑る音が耳に心地好い。ただ沈黙が流れ、それがとても安心した。

「…先生は」

「ん?」

「どっか行きました?」

「あー、遠出はしてねぇな。川島先生と海行ったくらいか」

「行ってんじゃないスか」

しかも海。女子生徒に人気の若い男二人で海。と考えたところで、嫉妬している女々しい自分に舌打ちした。そんな阿部の心を読み取ったのか、矢野は「姪っ子が連れてけっつったんだよ」とつけ足す。

「矢野先生の?」

「川島先生のねーちゃんの子供。あいつめっちゃ叔父バカだぜ。姫扱いでさ、もうメロメロ。何でも言うこと聞いてんの」

あいつ、と言った矢野は、次は無意識に川島のことをコウと言う。一応校内ではけじめとして名字に先生をつけて呼んでいるが、仲の良さは付き合いの短い生徒の自分でも分かる。それを羨ましいと思ったって仕方ないと分かってはいても、教師と生徒の壁は大きいことを痛感する。

「どした?」

何を訊かれているのか分からなかった、が、恐らく表情が曇ったことを不思議に思われてのことだろう。

「寒いか?」

「ちが、…つっ!」

つまらない嫉妬に気づかれたくなくてプリントを数えようとした時、一筋、熱いものが中指の腹を走った。しまったと思った時にはもう遅く、案の定そこにはぷくりと血の膜が盛り上がる。

「阿部っ」

矢野は素早く席を立つと阿部の腕を掴み、準備室の角にある小さな水道まで阿部を引っ張った。蛇口を捻ると弱く出てきた水が、指の血を洗い流す。

「大丈夫か?」

「へ、きです」

全然大した傷じゃない、これが三橋だったら自分も蒼白ものだが、自分は三橋ほど指先に神経は集中させない。だけど矢野が本気で心配してくれるのが嬉しくて、大丈夫だと手をふりほどけない。

「…止まってねーな」

水できれいに流れた後、数秒時間を置けばまた同じように血は盛り上がった。矢野は阿部の指をじっと見ていたかと思うと、何を思ったかその指をあむ、と口に咥えた。

「ちょっ…!?」

目の前を火花が散った、それくらい阿部は驚いた。矢野は真剣な目で阿部の指を唇で挟み、傷口に這わせるように舌をゆっくりと滑らせる。

「っゃ、の…せん、…っ」

声が上擦りかけて必死に唾を飲む。心臓が痛いくらいドクドクしている、明らかに脈拍も上がっているだろう。血なんて止まるはずがない。部屋の温度がどんどん上がっていく気がした。

「悪い、怪我させちまった」

矢野は何も悪くない、自分の不注意なのに。懸命に頭を振っても矢野は指を離してくれなくて、恥ずかしさで目に涙が滲む。頭と心臓が破裂しそうな、その時だった。

「アツシいるー?」

声と同時に開かれた準備室のドアから、いつもの常連客の川島が顔を出した。

「おーコウ」

「……何やってんの?」

「いいとこ来た。バンソーコ持ってねぇ?」

自分の白衣を着せた生徒の指を舐めながら平然と、つまり全く悪びれる様子もなく川島に話しかける矢野は、本当にこの状況に疚しい気持ちは持っていないようだ。阿部がこんなに赤面していても涙ぐんでいても、矢野はお構いなしに阿部の傷口に舌で触れ続ける。

「バンソーコ…あーあるわ」

「くれ」

川島は女子生徒から貰ったというクマ柄のピンク色の絆創膏を差し出した。

「えっ、ヤですこんなの」

「贅沢言うな。ほら指」

やっと指を離してもらえたが、今度はそのかわいすぎる絆創膏を持った矢野に待ち構えられる。矢野に舐められていた指は緊張のあまり、麻痺したみたいに感覚がない。阿部は観念して指を差し出した。

「マジごめんな」

「…なんで先生が謝るんスか。どう見ても俺の不注意でしょ」

「いや、そもそも俺が手伝わせたからだし」

一緒にいたくてついてきた阿部に口実を与えてくれただけなのに、こんなふうに謝られるのは辛い。なのに矢野は阿部の指にくるりと絆創膏を巻き付けると、申し訳なさそうに頭を掻いた。

「お前傷モノにしたら、お前んとこの監督さんにぶん殴られそう」

「……」

「…アツシお前さぁ…」

二人のやり取りを黙って見ていた川島が呆れた声で話に割って入る。

「お、れっ、もう行きます」

「え?」

「おぉ、練習頑張れよー」

焦って白衣を畳んで机に置きそそくさと準備室を出て行った阿部を、二人は暫く無言で見送った。

「…入って来たのが俺だったから良かったものの…他の先生だったら誤解されても言い逃れ出来ねーぞ」

「は?何が」

きょとんとした矢野の顔にまた川島はわざとらしく溜め息を吐く。

「含みなくああいうことするからタチ悪ィんだよお前は」

「何だよそれ」

「あーあー、阿部かわいそー」

「だからなんでだよっ」

なんかこの部屋暑くね?と大げさに手で扇ぐ川島に文句言うなと言いながら、矢野はすっかり温度の上がった部屋の中を歩き、冷房のリモコンへ手を伸ばした。

 

 

 

 end