先生!
矢野×阿部/ヤノカワ教師パラレル
ホームルームが終了すると、阿部は脇目も振らず教室の出口に向かった。
「えっ、あべー?もう帰んの?」
クラスメイトの水谷が声をかけても聞こえないのか無視なのか、どちらにせよ振り返ることなく廊下に出る。目指すは数学準備室。
「どーぞ」
控え目にノックすると、中から返ってきた返事に心拍数が上がる。何度訪れてもやはり緊張はするもので、だけど何度同じようにノックをしても変わらないトーンで返事をしてくれることに安心して、 阿部はドアをゆっくりと開けた。
「えーっ、先生彼女いないのぉ?マジで?」
「先生達くらいカッコ良かったらコンパとか行ってんじゃないのー」
どうやら先客がいたらしい。本当は数学教諭しか入ってはいけない専用準備室なのに、今日もいつものように日本史教諭の川島と、頭の悪そうな女子生徒が数名。今聞こえてきた会話だけでも彼女達の用事が到底数学に関するものではないことはハッキリしているが、だからといって阿部に帰れと命令出来る権限はない。
「じゃあアタシ矢野センセーの彼女になったげよっかぁ?」
「おー、んじゃ偏差値あと40上げたら告りにこい」
矢野の返事に女子生徒がセンセーひどーいだとかやっぱセンセーキライ!だとか喚き散らす、嬉しそうに。
「ホラ、お前らもう帰って勉強しろ。偏差値上がんねーと俺とつき合えねーぞ」
「もうセンセーなんかとつき合う気失せたもん!」
「あーソーデスカ。そりゃ残念」
面倒臭そうに追い返すくせに、彼女達が出ていく時に気をつけて帰れよと声をかける。
喜んだ彼女達がまた明日も来るねーと大声で言い、 来なくていいぞと律儀に返事をする。
んなことやってっからつけ上がるんだよ。心の中で罵声を浴びせた。
準備室の中央に置かれている小さな会議用テーブルには、数Ⅰ数Aの教科書と参考書、それからレースの紙ナフキンに3種類のクッキーが置かれていた。
「おー阿部、お前も食う?」
「なんスかコレ」
「さっきの奴らがアツシに賄賂持ってきたんだよ。今度の期末テストよしなにーって」
「こんなん作ってるヒマあったら勉強しろっつの。ったく、何であいつらってああなんだよ」
お前くらい優秀だったら俺も楽なんだけどなぁ、と溜息を吐いて矢野が阿部の向かいに座る。阿部はもともと理系で数学が得意だが、 数学担当の矢野と出会ってからはますます勉強を頑張るようになったのだから優秀で当然だ。言わないけれど。
「まぁ食いもんに罪はねーからな、ありがたく頂戴すっか」
矢野はココア色のクッキーを一枚口に放り込むと、うめーな、と言ってもう一枚に手を伸ばした。なんだかムカついたので、阿部は椅子から立ち上がって部屋の隅の冷蔵庫まで歩いていった。 その隣に置いてあるコーヒーセット(という名のおかきの缶箱)からインスタントコーヒーを取り出して、三人分のコーヒーを作る。
「川島先生、どうぞ」
「おっ、さんきゅ」
砂糖とミルクはいりますかと訊く阿部に、喫茶店みたいだな、と川島は笑った。
「矢野先生、はい」
「おー」
矢野の分はあらかじめミルクだけ。彼の好みの味は把握している。
「食わねーの?」
不思議そうに二人から覗き込まれて、う、と言葉に詰まる。食べたくない、だけどクッキーが嫌いなわけじゃない、食べたくない理由は他にある。でもそれを言葉にするのは死んでもイヤなので、やっぱり阿部は「いりません」と言った。
「なんで?クッキー嫌いか?」
全く無邪気な顔で問うてくる矢野に、だから嫌いじゃねぇっつってんだろ、と理不尽な怒りだと自覚しているので心の中だけでまた罵声。
「あーんしてほしいんだよな?阿部は」
「違います!」
楽しそうに冗談を言う川島に向かって声を荒げて否定していると、阿部、と呼ばれてつい無意識に振り向いてしまった。
「ほい」
「……」
有無を言わさず口に突っ込まれたのは、矢野の食べさしのくるみクッキー。
「うまいだろ?コーヒーに合うぞ」
口の中に広がるバターと砂糖の甘み、それしかないのに、矢野が食べていたという事実だけでこんなにも心臓が跳ねる。 悔しいからバリバリ音を立てて噛み砕いてやった。
「…矢野先生」
「ん?」
「さっきの奴らの偏差値っていくらなんスか」
へ?と間抜けな表情で訊き返す矢野とは対照的に、川島は頬杖をつきながら目を細めて阿部を見ていた。
数学準備室には、阿部はほぼ毎日のように通っていた。今は期末前で部活は試験休みだから放課後遅くまで入り浸っているけれど、普段は昼休みや僅かな休み時間に足しげく通っている。
矢野は鈍いから、きっと気づいていない。野球のこと以外には完全無頓着無関心な阿部がこんなにも面倒臭いことをしている、その理由に。きっとチームメイトに知られたら雪が降る槍が降ると本気で大騒ぎされるだろう、自分でも柄でもなく健気なことをしていると思う。
でも、だけど、こうするしかないのだ。矢野にとってただの生徒である阿部が少しでも特別な存在になるためには、少しでも意識してもらうためには、阿部自らが想いをぶつけるしか道がない。女々しいのは承知だが、変化球が利かない相手なのだから直球勝負でいくしか手段はなかった。そして阿部は今日も今日とて、数学準備室で矢野と二人の時間を過ごしていた。
「しっかしお前のリードってホント性格ワリーよな」
「キャッチャーなんだから当たり前でしょ。相手の裏の裏をかかなきゃいけないんスから」
「俺こんな駆引き絶対無理だなー。ニガテ」
元野球部の矢野とは、数学の話題以上に野球について議論し合うことが多かった。
俺とコウだったら、とかコウならああするけど俺ならそうするとか、川島がこの場にいなくてもいつも矢野が話題に出すように、 川島と矢野は本当に仲がいい。阿部もチームメイトは大切だし全員仲がいいとは思うけれど、高校卒業後もこの二人のように一生付き合っていける奴は一人でもいるのだろうかと考えると、分からなかった。 そんな二人の関係は正直羨ましいと思う。
「あれ?」
紙にフォーメーションを描く阿部を見ていた矢野が、何かに気づいて声を出した。そして目をくりっと見開き、今度は楽しそうにあははと笑い出す。
「頭沸いたんスか」
「ちげっ、おま、お前なぁ!教師に向かって頭沸いたってなんだソレ!失礼にもほどがあんだろ」
「だってアホみたいな顔してその後笑い出すから…」
「アホってなんだ!」
ったくお前は…と言いながら、矢野の手が伸びて阿部の顔に近づく。え、と思ったのも束の間、矢野の指はそっと阿部の耳横の髪を抓んだ。
不意打ちの体温と至近距離に、頭の中のフォーメーションが木端微塵に消滅した。矢野の視線は阿部の目より僅かに右横、抓んだ髪の先だけれど、 それでも心臓が苦しいくらい暴れている。
「お前、今日中庭の芝生に寝転がったろ?」
ほれ証拠、と言って、いたずらっぽく笑いながら矢野が阿部の髪から取った芝生を見せる。緑の小さな葉が2枚、矢野の指の腹に乗っていた。
「あ…」
確かに今日、休み時間にふざけて田島に転ばされた。それを見て笑う水谷にムカついたから水谷を引っ張り倒して、ゴロゴロ転がって遊んだ。 矢野は見ていないだろうが、もしあれを見られていたらと思うと恥ずかしくて頬が一気に熱くなり、きゅっと目を瞑った。
「まだついてんな」
「と…取ってください」
「子供らしくていーじゃん」
「ガキって言いたいんでしょ」
だってガキじゃん、とまた笑われる。クソッと内心舌打ちしてそっと目を開けると、矢野とばっちり目線が合った。
「……っ、」
時が止まるような感覚。ストーブにかかっているやかんの湯気の音が聞こえない、時計の音も聞こえない、なのに心臓がとくとくと脈打つ音は耳のすぐ傍で聴こえるようで、聴こえるはずがない矢野の胸の音が、指先から伝わってくる錯覚を覚えた。
なぜか、お互い瞳を逸らさない。もっと見つめてほしい、もっと見つめていたい、心地良い閉塞感に体温が上がっていく。こんなに幸せな 沈黙は、初めてだった。
矢野の指が、また髪に触れる。芝生を抓んだ指の間をするりと抜ける髪に神経が存在するみたいに、痺れるような刺激に意識が朦朧となりかけた。
「…せん、せい…」
ぴた、と矢野の手が止まる。もっと、そのまま、撫でていてほしいのに。やめないでと言いたいが、それよりも伝えたい言葉が胸いっぱいに膨らんで、こくり、唾を飲み込む。
「先生…」
「…阿部、」
聞いてほしい、伝わってほしい、受け止めてほしい、この想いを。
「先生、俺、先生のこ…、」
言葉は、そこで遮られた。
阿部の口を、矢野の大きな手のひらがそっと覆うように押さえたからだ。
阿部は瞠目し、目の前の矢野を茫然と見つめる。かざされた手は唇に触れるか触れないかくらいの距離で、全く力は込められていない。だけど阿部にとってはもう、何ひとつ言葉を発することも出来ないくらいの圧力に感じられた。それ以上の言葉を、想いの伝達を、矢野に拒まれたのだ。
気づかれていないと思っていた、知られていないと思っていた、だから伝わらないのはある意味しょうがないのだと自分自身に言い聞かせていた。
ちゃんと言葉で伝えれば、この想いをぶつければ、矢野もきっと分かってくれるだろう、と。思っていたのだ。思っていたのに。
「……帰ります」
「阿部」
唇が震え始めたのを知られたくなくて、大好きな手を振り払って部屋を飛び出る。
「ぅおっと、…あ、あべ?」
ちょうどドアを開けようとしていた川島とぶつかりかけたが、すみませんも言えず阿部はそのまま廊下を走っていった。
しばし呆然とその背中を見つめていた川島は、ようやくゆっくりと中に入ると、準備室の真ん中で間抜けにぽつんと座っている矢野の向かいの椅子に腰かけた。
手元には野球関連の落書きやらシャーペンやらが放置されていて、今しがたここに座っていたのが誰だったかを物語っている。
「……フッたの?」
「…フッてねぇよ」
「告られた?」
「………いや」
答えない矢野の表情を見て、川島はなんとなく悟ったのか、
「言わせなかったんだ?」
「………」
その反応で、もう充分だった。川島はんーと伸びをして、その後はー、と机に突っ伏す。
見ている側からしても、二人の雰囲気が特別なものだということは分かっていた。矢野の前では背伸びを頑張る阿部が、そのくせ毎日毎日律儀にここへ通い詰めるという今時女子中学生でもしなさそうなことをしていたのだから、矢野だって彼の気持ちに気づかないはずはないだろう。
だけど気づかないふりをするのが教師の役目で、どんなに可愛がっていてもそれは教師と生徒だからという大義名分を決して超えてはならない。懸命に態度で、視線で訴えてくる阿部を、拒みもせず抱きしめもせずただ迎えていただけ。
「難儀な商売だねぇ」
ホントにな、と矢野は苦笑いしながら、冷めたコーヒーを飲み干した。
逢いたいと思う時は授業がなくて、逢いたくないと思った時には授業がある、そんなものだ。もっとも逢いたくないなんて思ったのは、今日が初めてだけれども。
「じゃあ今からチャイム鳴るまで小テストな。だいたい15分だ。分かんねぇからって白紙で出すなよ!意欲を見せろ!」
こんな問題、分からない奴の気が知れない。教科書の練習問題の数字を替えただけでもう未知の数式にぶち当たったかのように嘆く文系の頭は一生理解出来ないと、前の席でウンウン唸っている水谷の背中を見て阿部は思う。一体一問に何分かけたら15分も必要なんだか、と全部埋めた答案を眺めながら背凭れに背中を預けた。
矢野がゆっくりと歩きながら、一列ずつ前から後ろに回っていく。距離が近づくたび、心臓が高鳴る。もう自分は振られてしまったのに、 それでも矢野が傍に来てくれることが苦しくて嬉しいから、辛い。
阿部の列に来た矢野とふと目が合い、昨日の数学準備室でのことが瞬間思い出された。
いつもは矢野が逸らしていた視線を、阿部から外した。
「いてっ」
前の席の水谷が声を上げる。教科書の角でコツンと頭を叩かれ、指差された氏名欄に気づいて慌てて名前を書き出す。アホが、と思って 自分の答案に目をやって、ちゃんと氏名が書かれていることを確認する。書かなきゃ良かったかな、女々しい発想に今度は自分に対してアホと罵った。
矢野は同じペースで、同じように阿部の答案も上から見下ろして、阿部の隣の生徒の答案にも目をやった。それから阿部の隣を通過しながら、
ぽん、と。
阿部の頭に手を置いた。
「あと5分なー」
早いよーとかまだ半分も出来てないとか声を上げる生徒にまた冗談ぽく死ぬ気でやれとか言いながら、矢野は後ろの列まで歩いていく。
机の下で、痛いくらいに拳を握りしめる。
ずるい。ずるい。こんなのは、ずるい。受け入れられないと、告白してはいけないと言われたも同然なのに、だけど嫌われてはいないんだと思ってしまう。迷惑じゃないからと、これからもまた、あの場所に逢いにいってもいいんだと、勘違いしてしまうじゃないか。
キライになれない、ならせてくれない。
つい昨日駆引き苦手とほざいた数学教師は授業終了のチャイムと同時に教卓まで戻ると、
「じゃあ答案を集めてー、出席番号1の阿部。数学準備室まで持ってきてくれるか」
教師らしくそう言って、教室を出て行った。
end