ブレイクショット
カワノベ/ヤノカワバーテンパラレル
矢野の作るローストビーフのフィンガーサンドは阿部の大好物だった。
「いらっしゃいませ」
乾いた柔らかいドアベルの音に矢野が顔を上げる。
「遅かったな」
「バイトが長引いたんです」
頬をくっきりと赤く染めて入ってきた阿部は、店内の暖かさに安堵して肩から力を抜いた。
「寒かったろ」
「めちゃくちゃ」
こんもりした黒のダウンジャケットを脱ぐと、窓際のアンティークなコートハンガーにマフラーと重ねて掛けてからカウンターに座る。一番右奥は阿部の特等席だ。
「この時間ってことはラストまで入ってたのか?」
「バイトの奴がインフルエンザにかかったみたいで、俺の他には一人しかいなかったから」
上がろうとしたら裏切り者って泣かれたんで、と疲労感を露わにした顔で言う阿部に矢野はお疲れさんと笑いながら、グラスに注いだジントニックを阿部の前に置いてやった。 阿部は頂きます、と小さく頭を下げてからそれを口に運ぶ。
「腹は?減ってる?」
「………、」
「了解」
頷こうかどうしようか迷っているのがバレたのか、矢野は阿部の返事を待たずに冷蔵庫から色々と出し始めた。
「パスタはシーフードでいいか?」
「スンマセン…」
てきぱきと作り始める矢野に、申し訳ないと思いながらも素直に感謝する。なにせ本当は腹ペコなのだ、急遽昼から閉店まで通しで入ることになってしまったので。だけど注文しづらい。阿部がどんなに飲んでも食べても、この店では 阿部はドリンク一杯分しか出させてもらえないからだ。
「…川島さんは」
「ん?いつもンとこ」
店内に心地よく響くボールとボールのぶつかる音、それが奥のビリヤード台からのものだということは阿部もよく知っている。そこにはカマーベストの後ろ姿に真っ白なワイシャツ越しにも分かる姿勢の良さと人懐っこい笑顔が印象的な、明るい髪色のボーイが常連の男性客と対戦している。川島だった。
最後の球がポケットに入る音と同時に男性客は悔しそうに項垂れて、一方川島はいつもの余裕な、他人をからかう笑みでご馳走様です、と言った。
「兄ちゃんには敵わねぇな」
「これで食ってますから」
「よく言うよ」
ボールを集めてラックに収め、キューを壁に戻してから川島はこちらを向いて手を上げた。矢野は苦笑して新しいウィスキーのボトルを開栓すると、ふたつのグラスにそれを注ぐ。 カウンターによっこいしょと腰かける男性客の前にグラスを置き、中に戻ってきた川島には手でそれを渡した。
「では、勝利の美酒に乾杯」
「不味い酒だ」
川島は男性客と笑い合って一口飲むと、矢野の後ろを抜けて阿部の座っている前までやってきた。
「おっすタカ」
「こんばんは。また勝ったんですか」
「いやー、お客様にご馳走になる酒は美味いね」
聞こえてるぞ、と客に突っ込まれてニカッと笑う、そういうところが憎らしくて年上から可愛がられる所以だろうか。
阿部が通うこのバーには、ふたつ年上の矢野と川島がバイトで勤めている。バーなんて小洒落た場所は自分とは不釣り合いな気がするけれど、二人は阿部をとても歓迎してくれていて、 阿部が行くたび食事や飲み物を出してくれる。
奢りだから金はいいと言われるが、そんなことされるともう来れないと言う阿部に、だったらと気持ちばかりにドリンク一杯分だけ彼らはレジを打つのだ。それでもまだ申し訳ない気がするけれど、やはり彼らは気前よくバイトで疲れた阿部をもてなしてくれた。
「阿部、サンドイッチ食うか?」
「あ…」
シーフードパスタを一口食べたところで矢野が訊いてきた。食べたい。阿部は矢野の作るフィンガーサンドが大好きだった。だけどやはり子供みたいに何でもかんでも食べたいと言うのも躊躇われて返事に詰まると、矢野はプッと噴き出してお前なぁ、と笑う。
「顔に出てんだから食いたいなら素直に言え」
食い意地の張った高校時代の投手を思い出し恥ずかしくなる。あんなに食べたい食べたいと顔に書いているのだろうか。
「アッちゃん俺も食べたーい」
「オメーは自分で作れ」
ふざけた川島が矢野にすり寄ってねだると、鬱陶しそうに矢野はその頭を突っぱねた。ちぇーと膨れて、川島は矢野がサンドイッチを作りにかかると、タカ、と阿部を呼んだ。
「やるか?」
「え…」
川島が今しがた片付けたばかりのビリヤード台を指差して言う。誘われているのだとすぐに分かった。
阿部はビリヤードが好きだ、だけど得意じゃない。川島のプレーする姿を見てすごくやってみたくなり教えてもらったことがあるが、全くうまくいかなくて早々に挫折した苦い経験がある。だけど本当はもっと上達して、川島のようにキューを滑らかに駆使してボールを自在に操れたらどんなに気分爽快だろうかと夢見てはいた。
「でも俺下手だし」
「ハンデつけてやるよ。やりたいだろ?」
確かにやりたい。下手くそだけど、ビリヤードは楽しい。小難しい技なんて出来ないが、ただ撞くだけでもわくわくするのだ。
「でも川島さんて…」
「なんだよ」
「賭けてないと燃えないんでしょ」
客と楽しそうにゲームする川島は、いつも何かしら賭けている。大抵は店のボトルをどちらが開けるかだが、阿部は矢野達の好意とはいえほぼタダ飯食いなので賭けにならないと思うのだ。
「別に賭けてなくても楽しいぜ?タカとなら」
川島はそう言った後に、「あーでも、やっぱ賭けるか」とあっさり主張を変えた。
「俺も飲めるやつにしてくださいよ」
「ボトルはいいよ、他にも開けてくれる人いるから。そーだな…じゃあ俺が勝ったら、キス1回とかどう?」
「……は?」
意味が分からなくて訊き返す阿部に、川島は目を細めて微笑みながらもう一度ゆっくりと「キス、1回。な」と繰り返す。
「阿部。代われ」
まだ川島の言葉の意味も意図も理解出来ずに反応を返せないでいる阿部の後ろから、矢野が口を挟んできた。
「おーなんだよ、代打か?」
「オメーがしょーもない賭け言い出すからだろ」
矢野は少し怒ったようにカウンターから出てくると、ずかずかと奥の台へと歩いていく。その後ろをのんきに歩きながら、川島はくるりと振り向いた。
「タカー、俺の応援しろよ?今からアツシ泣かせんぞー」
「誰が泣くかっ。…阿部!」
また矢野は川島に怒った後、同じように振り返って阿部に声をかけた。
「勝ったらすぐサンドイッチ作ってやっから」
だからお前は俺の応援しとけ、と言われて、阿部はすっかり頭がこんがらがった。川島の賭けの目的も、なぜ阿部の代わりに矢野が勝負を受けているのかも分からない。
ちらとカウンターの中を覗けば、ラップで覆われたローストビーフとパンが寂しそうに調理台の上で放っておかれている。
川島もビリヤードは強いが、矢野も同じくらい強いのを阿部は知っている。阿部は早く好物のフィンガーサンドが食べたかったので、矢野が勝ちますようにと祈るべきか、勝敗なんてどうでもいいからさっさと負けてサンドイッチを作ってくれるように祈るべきかと、しばし真剣に悩んでいた。
end