君と未来の想い出を②
バイトのない日は授業から戻ると荷物を持って上がり、なんとか土曜までには部屋を引き払えた。
とりあえず寝室は今までと同じようにベッドとラックを置いた。こたつテーブルは隣の和室に置くことにした。みんなにはここに座ってもらうから、テレビもこっちだ。
明日は土曜日だ。やっと和サンに逢える。
そう思うとやっぱり気分もウキウキして、一限の授業も今日はそんなに苦じゃないなと思いながら教室に入った。
広い教室内を見渡すと、ちょうど席に着こうとしていた男と目が合った。あ、と声を出してしまい、向こうも俺に気がついた。阿部だった。
彼はぺこりと会釈をして、何でもなかったように席に着く。目が合った以上、あえて離れて座るのもおかしいかと思い、俺は彼の隣に座った。
「おはよ。阿部くんもこの授業とってたんだ?」
彼はちわス、と挨拶を返すと、必修なんですと答えた。つまりこれから毎週、同じ授業を受けるということか。
「こないだはごめんな。家片付いたから、今度来なよ」
彼は言葉にはせず、少しだけ口角を上げて頷いた。
苦手だ。
なんていうか、こう、俺と阿部との間には見えない大きなぬりかべが存在している感じがする。俺にも苦手意識はあるが、多分向こうも俺に興味がない。だからこんな、心にも思っていない建前で会話すること自体が時間のムダだと思われている感がハンパない。
俺は慎吾さん達やアホ利央と違って誰とでも浅く広く仲良くなれる性格じゃないから、ただの過去の野球部繋がりという理由だけでわざわざ大学でまで阿部と仲良くしたいワケじゃない。
そうだもう気にしないでおこう、来週からは違う席に座ろう。そんなことを考えながら、俺は長く苦痛な90分授業を乗り越えた。
迎えた土曜日、集合は夕方のはずなのに昼過ぎからすでに暇人達はやってきた。
「あれっ、なんか前来た時より狭くなってない?」
「誰かさん達がバカでかいテーブル送ってきてくれたんで」
「店で見ると小さいかなーってくらいだったのにな」
もひとつ大きいサイズにしなくて良かったなぁと慎吾さんとヤマサンは笑っている。
「でも椅子ないじゃん」
「椅子まで揃えたら通れねーでしょ、今でギリギリなのに。あっち行ってください」
俺が和室を指差すと、ヤマサンは「あー流行りの和モダンリビングねー」なんて言いながら畳の上に寝転んだ。
「利央も来るんだろ?」
「そうじゃないッスか?和サン来るのにアイツが来ないワケないっしょ」
「阿部くん呼んでくれたかなぁ」
ヤマサンの言葉に俺は「は?」という顔をした、と思ったけど声にも出ていたらしい。
「何で阿部くん…」
「え?だってせっかくお近づきになれたんだし、友好深めたくない?」
「けど今日呼ばなくても…知らない奴ばっかで向こうも楽しくないんじゃ」
「準太さぁ、」
渋る俺の言葉を遮るように、慎吾さんが声を発した。
「なーんか突っかかるよなぁ阿部くんに。なんかあったの?」
「あーそれ俺も思った。やたら阿部くんにイジワルだよね、こないだも追い返してたし」
食堂でのことだろう、ヤマサンが慎吾さんに加担する。
「いや、帰るって言ったの向こうじゃないスか。てか別にいじめるほどの知り合いでもないッスよ」
「嫌いなの?阿部くんのこと」
「だから好きとか嫌いとかもないですって」
「じゃあいーじゃん、呼んだって」
微妙に争点が食い違うから一向に埒が明かない。俺は何で昨日今日挨拶を交わした程度の彼を、わざわざ桐青メンツでの集まりに呼ぶのかと訊きたいだけだ。それなのにヤマサン達はまるで俺が彼を嫌って避けてるみたいな言い方で非難する。
「利央は随分仲良いみたいだったけど?」
「同い年だからでしょ。高一からずっと交流あんならフツーじゃないスか」
「だったら呼んでもいいじゃんね~」
もうこの二人には口では敵わない。俺は諦めてどうでもいいと溜息を吐いた。
ダラダラしているうちに一人、また一人とぽつぽつ集まってきて、和サンが来たのは夕方の四時頃だった。
和サンが来てから俺の機嫌は右肩上がりで、慎吾さん達が呆れているのも構わず久々の和サンとの再会に俺は高校時代みたいにはしゃいだ。
だから利央が彼を連れて来た時も、恐らく今までにないくらいの笑顔で二人を出迎えたんだと思う。利央も彼も、一瞬固まっていた。
利央以外はこの場にいるほぼ全員が彼とは初対面に近かったが、さすが同じ時代に甲子園を目指した者同士の会話は弾んだ。
分かりきっていたことだが、誰も桜なんか見ちゃいない。ただただ酒を飲むだけだ。
元キャッチャーが三人も集まったことに利央は大喜びで、大好きな和サンと大好きな阿部くん(丸分かり)との捕手あるある話で女子みたいにきゃぴきゃぴ興奮していた。
和サンと西浦のキャッチが普通に会話している。なんだか不思議な光景だ。
そもそも俺が彼を苦手になったのはあの試合が原因で、和サンを勝たせてあげられなくて、自分が不甲斐なくて、昇華しきれない憤りが逆恨みとなって彼への苦手意識に繋がっていったというのに、三年の月日を経て和サンと彼が今俺の目の前で談笑している。
俺は一人で空回って可哀想な自分に酔いしれて、勝手に彼を悪者にしていたに過ぎなかったのだと改めて自覚した。そうすることで自分の中の和サンへの気持ちをずっと縛り付けて、自分で作った鎖に自分で繋がれて、和サンを忘れられない大義名分にしていたんだと、今更ながらに自覚した。
穏やかに笑う二人を見ているうちに、情けなさでどうしようもなくなってきた。
「準太ぁ、お酒足りなくなっちゃった~。買ってきてくれない?」
当然のようにヤマサンが家主である俺に言った。
「スンマセン、俺未成年なんで」
「飲んでるクセにー!じゃあ和己と行ってきてよ。絶対大丈夫じゃん」
「え」
和サンはどーゆう意味だよと笑いながらも、
「まぁ酔い醒ましにいっか。準太、行くか」と俺を誘った。
思わずハイッと活きの良い返事をしてしまった。部活かよ!ってその場にいた全員から笑われるほど大きな声だった。
今までならアホが絶対「え~じゃあ俺も行くぅ!」とついてきたものだが、今日は大好きな阿部くんがいるからだろう、行ってらっしゃーいと手を振ってその場から動こうとしない。
何て幸運。何て粋なはからい。ヤマサンは天使か?と一瞬でも思った時点で、かなり俺も酒が回っていたのかもしれない。
アパートを出て数分のところにコンビニはあるけど、和サンとゆっくり話したかったから、もう少し遠いところにあるスーパーに足を伸ばした。
「ひっさびさにみんなと会ったけど、変わんねぇなぁ」桜の続く歩道を歩きながら、和サンはしみじみと言った。
「ヤマサンは確実に悪い方向に変わってますよ」
確かに、と言って和サンが笑う。
「しょっちゅう会ってんの?ヤマちゃん達とは」
「もう常にッス。俺のガッコも家も溜まり場にされてるんで。つか和サン、マジで久々ッスね」
「あー、結構学校に泊まり込んでっからなぁ」
「そんな大変なんスか」
「でもまぁ、楽しいんだけどな」
やりたいことをやりに大学に行く人間と、やりたいこともなくただ大学に行くだけの人間の違いだろうか。たまにチームを組んで野球をする俺達とは違って、和サンはもう野球は全くしていないと聞いた。する暇もないそうだ。
歩きながら、和サンと色んな話をした。学校のこと、家族のこと、野球部時代のメンバーのこと、そして、利央のこと。 利央はしょっちゅう和サンに、俺の文句をメールしてくるらしい。それは和サンが引退して、俺が部活をサボっていた時から今もずっとだと今日初めて聞かされた。
アイツ後でぜってー蹴ってやると思っていると、「利央は優しいよな」と和サンが言った。
「俺に準太の近況を報告してくれてんだよ。準太はきっと、俺に何にも言ってこないだろうって分かってるんだ、あいつは」
「え…」
「利央はさ、ずっとお前のこと心配してたぞ。夏大の後も、お前とバッテリーになってからも、お前が引退してからもずっとお前のこと気にしてたよ。俺と準太みたいなバッテリーになりたいけど、全然準太に信頼されてないって、結構本気で悩んでた時期もあったんだぞ」
俺とバッテリーを組むようになって、利央が悩んでいたのは知っていた。俺がずっと和サンを忘れられなかったから、和サンの幻影ばっか追いかけてたから、なかなかしっくりいかなかったことは事実だ。
このままじゃいけないとさすがに俺も気持ちを入れ替えて利央とちゃんと向き合うように努力はしたけど、アイツには俺の心の底が見えちまってたんだろう。利央に悪いことしたな、と良心が少し痛んだ。
「あ、あとヤマちゃんと慎吾もお前のこと心配してたぞ」
「は?ヤマサン達が?」
「今日だってな、『準太の目が死んだ魚みたいだからどーしても来い、絶対来い』ってメールきたんだ」
風が吹いた。
桜の花びらが舞う。
次の雨で桜はだいぶ散るだろうと天気予報で言われていたことを思い出した。
俺は言葉を失った。ウソだろ、なんで、ヤマサン達まで俺のこと気にかけてるんだ?
和サンは困ったように笑って溜息を吐くと、「お前はみんなから愛されてんだぞ」と言った。
いやそれはウソでしょ、ヤマサン達のはどう見ても嬉しくない意味での可愛がりでしょ、と言いたかった、けど、言葉が出ない。
「俺らはもちろん、同学年の奴らだって後輩だって、桐青のエースはお前しかいないって思ってた。お前が桐青の柱だった」
三年前の、思い出したくない辛い記憶が蘇る。だけど忘れられない、俺と和サンの最後の試合。たった一試合で終わってしまった、俺と三年生の夏。あの日から歩き出せないままでいるのは、俺一人だけなんだ。
「いつまでも自分を責めるな。俺もお前も、もう高校野球は卒業したんだ」
和サンはあの頃と変わらない強い目と優しい笑みで、俺の肩に手を当てた。あの試合の後みたいに。
さすがにあの時みたいに涙は出なかった。もう三年も前のことで、あの時の自分と今の自分では、がむしゃらさも必死さも目標としているものも何もかもが違い過ぎている。
もう俺は高二じゃない、ただの大学生だ。そう、もう球児じゃないんだ。
「和サン」
俺は足を止めた。 和サンは数歩進んでから立ち止まり、それから振り向いて俺の目を見た。また風が吹いて、薄紅色の花びらが目の前を何枚も落ちていく。春の夜の風は、どうしてこうも切ない気分にさせるんだろう。
「俺、……和サンが、好きです。大好きです」
「うん、知ってる」
「中学でも高校でもずっと、ずっと和サンと野球やりたくて…和サンに投げるためだけに野球やってました」
和サンは黙って、俺の言葉を聞いてくれている。俺はずっと心の奥底にしまい込んでいた感情を、和サンに嫌われたくなくてずっと隠していた情けない甘ったれな自分を、和サンに吐露していた。
「和サンが引退して、新チームになって、…でもあの頃の俺には、和サンのいない野球部で野球を続ける意味が見つかんなくて……だから部活もサボったし…けど、」
堰を切るように言葉が出てくる。こんなに感情を素直にさらけ出せたのは、あの日以来だ。
「和サンとやってきた野球だけは辞められなくて、もし辞めたらもう和サンとは何の繋がりもなくなっちゃうんだって思ったら、怖くて」
「準太」
和サンが俺に歩み寄ってくる。俺は子供が親に感情をぶつけるみたいに、文脈も何もない取り留めのない言葉ばかりがボロボロと溢れ出すのを止められなかった。
桜の花びらが散る。はらはら舞いながら俺と和サンの間を優しく落ちていく、まるで雨みたいに。
和サンは俺の肩に手を置いて、俺の顔を覗き込むようにして言った。
「俺達は野球だけで繋がってるんじゃない。野球を通して一生の友人になれたんだ。そうだろ?」
「和サン」
「俺にとってお前は唯一無二の、最高のエースだ。それは昔も今も変わらない。だからもう、あの夏は想い出にしよう」
和サンが、真っ直ぐ俺の目を見て言う。
そうだ和サンはいつだって、強い目で俺だけを見てくれていた。そして今も、俺のことを本気で思ってくれている。
俺のせいで負けたとか、もっとやれたはずだとか、和サンじゃないとダメだとか、自分のことばかり考えていたことが一番情けない。
だけどもう、いまさら悔やんだってどうにもならないし、利央やタケ達に謝ったってそれこそいまさらだ。
あの日のマウンドから降りないといけない。歩き出さないといけない。
和サンから、自立しないといけない。 和サンへの依存を、断ち切らないといけないんだ。
大学で好きなこと見つけろよ、と和サンは言った。勉強でもスポーツでも友人関係でもいいから、大事にできるものを見つけろよ、と。
俺はまた部活の延長みたいな大声で返事をした。和サンは声を出して笑った。