甘くて苦い
矢野×阿部/ヤノカワ教師パラレル
ラスト、と言う阿部の声に、三橋は最後の一球も集中して投げた。
「おっし、ちょっと休憩」
「お、おぉっ」
チームの賑やかなかけ声が校舎の向こうのグラウンドから聞こえる。野手組と別れてバッテリーメニューをこなしていた阿部と三橋は、少し休憩するために校舎の日陰へ入った。とその時、
「阿部か?」
後ろからした声に心臓が大きく跳ねた。阿部のよく知っている、大好きな声だったからだ。
「やっ、や、の先 生っ」
三橋が振り返り、こちらに歩いてくる矢野を確認する。それに促されて阿部も後ろを振り返った。
よぉ、と片手を上げた矢野は紺色のTシャツの袖を肩まで捲り上げていて、被っていたキャップのつばを抓んだその腕で額の汗を拭った。
「あっちーなー!バテてねーか?」
水分ちゃんと摂れよーと言ってから、矢野はもう片方の手にぶら下げていたコンビニ袋を三橋に渡す。
「あっ、アイ ス、だっ!」
「俺と川島先生からの差し入れ」
「川島先生?」
「直接グラウンド向かったからあっちいるんじゃね?」
なるほどさっきの楽しげな声は川島が乱入したからかと納得がいく。矢野は袋から適当にアイスをふたつ取り出してから、
「三橋、悪いけどそれ他の連中に持ってってくれるか?」
「えっ、はっ」
袋を抱きかかえた三橋が阿部にちらりと視線を向けたので、阿部はこくりと頷いた。途端、三橋は校舎の向こう側に駆け出す。その後ろ姿を見て、矢野はクックッと笑った。
「調教されてんなー」
失礼な言い方だ、阿部はムッとして口を尖らせる。非常扉の前の階段に腰を下ろすとホイとソーダ味のキャンデーを渡されて、まだ拗ねた表情のまま受け取った。
「仕事ですか」
「まーな。色々とやることあんだよ、これでも。今日は午後から打ち合わせ」
「…フゥン」
しゃくりとアイスが歯に砕かれて、口の中に涼が広がる。ちらと隣に座る矢野に目をやれば、彼は抹茶色のキャンデーをペロペロと舐めていた。
「今年も順調だな。三回戦明後日だろ?」
「はい」
「観に行くな」
「…ありがとうございます」
阿部の好意を知っていながら、それでも矢野は教師として阿部を可愛がってくれる。受け入れられも避けられもしない、それは生徒としての特権だけれども、やはり辛くないと言えば嘘になる。でもこうして笑いかけられると素直に嬉しくて、そんな単純な自分はやっぱり子供なんだろうなと思う。知らず、小さく溜め息が漏れた。
「なんだ?自信ねーのか?」
「…違います」
「大丈夫だって!お前賢いから負けねーよ。頑張れ!」
「だから違いますって」
負ける気などない、勝負は初めから決まってないのだから。勝つ自信だってある。
野球、なら。
分かっているのかいないのかニコニコ笑っている矢野が憎らしくて、奥歯でアイスを噛み砕いた。
「おっ」
矢野のジーンズのポケットが震えた。
「おぅ、終わったか?は?ヤだよ、俺今から打ち合わせだぞ。汗だくで出れっか」
電話の相手は川島だろう、矢野がこうしてタメ口で話す教師は同期の川島しかいない。
「えー、今アイス食ってんのに…わーったよ。…おー、んじゃ行くわ」
川島の呼び出しに渋々了承し電話を切った矢野は「ノック入れだってよ」と嫌そうに言うと、携帯を再びポケットに収めてから阿部に目をやった。
「…?矢野せ…んっ、」
手にしていたキャンデーの棒を掠め取られると同時に突然押し込まれたそれは、さっきまで矢野が舐めていたキャンデーだ。口の中に宇治金時の味が広がる。
「交換な」
まだ半分以上残っている矢野のとは違い、阿部のソーダ味のキャンデーはもうほとんど食べ終えてしまっているのに。
矢野は最後の塊を歯で押さえるとそのまま棒を引き抜き、指でそれを抓んだままじゃあな、と言ってグラウンドへと歩いて行った。
「阿部!もう休憩終わんぞー!」
花井の声に我に返り、阿部は急いで腰を上げる。ジャクジャクと噛むと、さっきまでの爽やかなソーダ味は口の中からすっかりなくなり、甘くて苦い抹茶の味に塗り替えられてしまった。
end