だから酒ってやつは②
矢野の最近のマイブームは湯船に浸かったまま歯を磨くことで、水磨きの後に仕上げとして歯磨き粉を使ってひたすら時間をかけて歯磨きをする。自宅の風呂はリフォームしたてのピカピカで、もともとの広さもあり湯船も大きい。だが現在一人暮らしのこのアパートの風呂は実家に比べると非常に狭くて、それでも築浅且つユニットバスではないだけまだマシだと自分を慰めて毎晩湯に浸かるのがバイト帰りの楽しみだった。今日も今日とて湯を張って上機嫌で歯を磨いていた、その時だった。
「アツシー!!アッツシくーん!!ヤーノジューン!」
近所迷惑甚だしい陽気な声でドンドンドンとドアを叩く奴なんて矢野の知り合いには一人しかいない。そしてその一人には昨日預けていた合鍵を今日返してもらう約束をしていたので、矢野は敢えて風呂から出ずに、とりあえずうがいをした。
「もー勝手に入っちゃおーぜタカ!」
「うす」
え、タカ?と耳を疑っている間にも鍵は勝手に開けられ、つまり案の定ドアの向こうの端迷惑な知り合いは川島だったことが分かる、そしてどうやら阿部も一緒らしい。
「たっだいまー!あー疲れたー、ねみー!」
おっしゃ寝るぞーと勝手極まりない声と賑やかな足音が浴室前の廊下を通過していく。十中八九、川島はコタツに入って眠ってしまっているだろう。そう思っていると、
「矢野さん!」
遠慮も何もなくいきなり阿部が浴室のドアを開けた。矢野が驚きの声を上げるより前に、阿部は更に驚くことに服を着たまま中に入ってきて洗い場に両膝をついた。
「オイッ、ちょ、おまっ…」
「矢野さん…いた…」
「ちょ、ちょっと待て!何してんだよお前っ!?」
今にも泣き出しそうな表情でじっとこちらを見つめていたかと思うと突然がばっと抱きつかれ、何が何だか理解出来ない。
「おいタカッ!待て、濡れる!服っ!」
「俺も入る…」
「どわーっ!?脱ぐな!入んなっ!落ち着けって!!」
どう見ても酔っ払いの所業だ。どんなに矢野が抵抗しても阿部は服を着たまま無理矢理浴槽に入ってきて、とうとう矢野は根負けしてしまった。ワンルームにしてはかなり広い方の湯船といえど、 男二人が重なるように入っては半分以上湯が溢れてしまうのは当然だ。
「うぅ…矢野さん…」
「…なんなんだよお前は…」
矢野の身体に跨る恰好で相変わらず首に縋りついている阿部は全身ずぶ濡れで、ぐっしょり湯に濡れて重くなった服の不快感に重いだの気持ち悪いだのぐずぐず不満を漏らしながらも矢野から離れようとはしない。阿部の頭を宥めるようにぽんぽんと撫でながら矢野は大きな溜息を吐いた、客観的に見てこんな間抜けな光景はないだろうと思いながら。
「矢野…さぁん」
「なんだよ酔っ払い」
「酔ってねーもん…」
「イヤ酔ってんだろ、どう見ても」
それでも阿部は酔ってないと言い張り、だがふと黙り込むと、…酔ってる…?と呟いた。
「だから酔ってるって。どんだけ飲んだんだお前ら…つか何で俺ヌキで飲み行ってんだよ、さみしーだろ」
「だって公さんが…」
そこまで言って、また阿部は黙り込む。
「コウが?っとにアイツ抜け駆けしやがって」
「……キス…」
「は?」
聞き間違いだろうか、今キスって言ったか?え、何の流れでキスなんて単語が、と自分の耳を疑っていると、もう一度阿部はキス、と言った。
「した……」
「え?何…」
「公……さん、と」
「…………」
言葉を失った矢野から、阿部はゆっくりと身体を起こして離れた。目の前の濡れ鼠が何か言いたげに、何を言いたいのか分からないけれど、それでも訴えかけるようにじっと見つめてくる。
酔った勢いだろ?とか、コウからしたの?とか、お前からしたの?とか、……好きなのか?とか。
訊きたいことは色々あるのに、何一つ言葉に出来ない。何一つ知りたくないし、何一つ信じたくない。その涙の意味も、知りたいけれど知りたくない。
矢野は湯の中で阿部の身体を引き寄せ密着させると、自分よりも高い位置にある彼の頬に手を添えた。