君と未来の想い出を⑤
前期が終了して夏休みに入ってからも、ヤマサンと慎吾さんは俺の部屋に来てだらだらと毎日を過ごしていた。別に親友でもなんでもない、ただの暇人達の集まりだ。
「てか最近阿部くん来てなくない?どうしちゃったんだろ」
ヤマサンが携帯を眺めながら言うと、慎吾さんは冷蔵庫から取り出したペットボトルの蓋を開けながら答えた。
「なんか利央が一緒にバイト始めたとか言ってたな、夏休みの間だけの短期バイトらしいけど」
「あーそれで利央もいないのか。何のバイトなんだろ、準太知ってる?」
「ボーリング場の深夜バイトらしいッスよ。暇なワリに時給いいっつってました」
「なにそれ楽しそー。俺達なんて汗水流してホールしてるってのに!なぁ慎吾」
そう、年中暇しているようでヤマサンも一応バイトはしている。バイトと俺の部屋を行き来しつつ、たまに実家に戻る日々を送っているのだ。
今日も入ってるのかな?とヤマサンが言う。慎吾さんが利央に連絡をすると、すぐに返事が返ってきた。
「今日は20時上がりらしい」
「おっいいじゃん」
ヤマサンは慎吾さんに「バイト上がりにココ来るよう二人に伝えて~」と言うと、自分はさっさと寝てしまった。
「ヤマちゃんのスーパーマイペースな性格ってホント羨ましいよなぁ」
慎吾さんは和室で転がっているヤマサンを見ながら言った。和室よりもダイニングにいることの方が多い慎吾さんは、大勢で集まっても数人で集まってもだいたいは椅子に座ってダイニングにいる。このクソでかいダイニングテーブルに一番思い入れがあるのは、実は慎吾さんなんだろう。
ヤマサンも慎吾さんも、久しぶりに隆也に会えることを楽しみにしてるのが分かる。まぁ俺も、試験で会ったのが最後だから隆也と会うのは久々だ。
「コンバンワァ~…」
バイト終わりに、嫌々なのを隠さずに利央がドアを開けて入ってくると、たっぷり仮眠したヤマサンはすこぶる元気にお疲れ~と返した。もう始まってるよ~んと言いながら発泡酒の缶を持ち上げてつまみを口に含む。ほんとにこの人は20代前半なんだろうか。
「阿部くん飯は?」
「あ、まだです」
慎吾さんと隆也の会話に、利央が「俺も食べてないよぉ!」と後ろから主張する。
「隆也、ラーメンならあるけど。食う?」
「はい」
「準サン俺もッ!俺もラーメン食べたーい!」
「オメーには訊いてねーよアホ」
ひどぉい!と喚く利央を無視して鍋に水を入れていると、隆也がスッと隣に立ち、俺の手に重ねるように鍋の取っ手を掴んだ。
「スイマセン、自分でやります」
「そ?」
素直にその場を譲って椅子に戻ると、隣でなんだか楽しげに笑いながら慎吾さんがこっちを見ていた。この笑顔は、俺は好きじゃない。
「準太は阿部くんに優しくなったなぁ」
コンロとダイニングテーブルの距離はほど近いけど、今は利央が隆也と並んでわいわいラーメンを作っているから慎吾さんの声は聞こえていない。
「そっスか?」
動じていないふうに答えたが、内心ヤバいと思った。久しぶりに会えたからちょっと浮かれ過ぎてたかもしれない。隆也の手が俺に触れた時、一瞬言葉を飲み込んでしまったのも慎吾さんにはお見通しなのかもしれなかった。
「てゆーかさぁ、俺たち今日で三連勤だったんだよぉ。昨日一昨日と深夜で今日日中。だからすっげー寝不足なの」
「へぇ。どうりで眠そうな目ェしてると思った」
「元からでしょ」
俺と慎吾さんのやり取りに利央は準サンだってタレ目だろぉ!と目くじらを立てて怒る。
疲れた疲れたと言いながらも、まぁ阿部くんと一緒だから楽しいけどさぁ~なんて嬉しそうに言う利央に隆也はそうか?とツレない返事を返していた。利央はそれでも嬉しそうに、隆也と並んで座ってラーメンを食べて幸せそうな顔をする。
「阿部くん飲みなよ~。ハイかんぱーい」
和室からのそのそ出て来たヤマサンが、チューハイのプルトップを開けて隆也に渡す。そして自分の飲みかけの缶を持ち上げると、隆也と乾杯をした。この間はノンアルコールを飲ませていたのに、今日は買うのを忘れてた。
「ラーメン食ったらみんなでババ抜きしない?」
「また地味な…」
「いや、これがなかなか燃えるんだって」
今夜はオールナイトね、と宣言するヤマサンに、だから俺たちチョー疲れてんだってぇ!と利央が嘆く。そんな言葉を無視してヤマサンはテレビを点けてザッピングし始めた。
「あ、野球終わってる」
ヤマサンの声に何気なく全員がテレビに目をやると、本日のお立ち台に榛名が出ていた。
「ぅげッ」
俺じゃない。声には出してない。利央だった。ヤマサンテレビ消してよぉ~なんて言うもんだから、絶対消してもらえない。コイツは何年この人とつき合ってんだ。
テレビの向こうで、榛名は清々しい表情でアナウンサーの質問に答えていた。そして最後に帽子を取り球場のファンを沸かせてから、画面から消えて行った。なんてことない、ただのヒーローインタビューだ。
「オレ榛名キラーイ」
もう何千回聞いたか分からない利央の恨み節だが、驚いたのはその直後だった。
「……オレもキライ」
まさかそんな言葉が、隆也の口から出てくるとは思ってもみなかった。これには俺はもちろん、慎吾さんとヤマサンも意外そうな顔で隆也を見た。アホの利央だけは「ホントぉ!?うれしー!」と大喜びしている。
「阿部くんも榛名キライなんだぁ!?一緒一緒!俺もねーだいっキライなの!アイツ俺の兄ちゃんの誘い蹴って武蔵野なんて無名弱小校行ってさぁー!んで結局プロなってんじゃん!?だったら初めから美丞行っときゃ良かったのにさぁ!」
隆也という最高の理解者を得た利央は大得意で榛名の悪口を言いまくる。悪口というか、完全に逆恨みだ。単なる嫉妬だ。コイツのブラコンは今に始まったことじゃないからどうでもいいけども。
隆也はそんなしょうもない利央の言葉にもウンウン、そうだよなと頷いている。さっきまでの、というかいつもの隆也とは明らかに違う、なんだか今はものすごくフレンドリーになっている。
「…阿部くん、酔ってる?」
慎吾さんが訊くと、隆也は手に持っていたチューハイの缶に力を込めてペキ、と音をさせ、「酔ってないです」と慎吾さんを睨んだ。
その目はいつもと変わらずタレていてそんなに変化は分からないが、充血していることはよく分かった。寝不足で疲れて空腹なところに酒なんて入れるから、一気に酔いが回ったんだろう。
「なになに~、阿部くん榛名にイジメられたの?お兄さんに話してごらん?」
ヤマサンがけしかける。以前の隆也ならスッと口を閉ざしたのに、今の隆也は拒まない。
「はるな…」
そう小さく呟くと、また黙り込む。俯いた黒い瞳が暗く揺れた気がした。 俺は隆也の心の内を訊きたいのか訊きたくないのか分からずに、目の前の隆也の姿に表情こそ変えはしないがはっきりと動揺していた。
「阿部くんはァ、榛名と組んでたの?」
ヤマサンの質問に隆也は無言で頷く。
「へぇーそうなんだ。楽しかった?」
また無言で、今度はブンブンと首を振る。楽しく、なかったのか。
「扱いにくかったの?あいつプライド超高そうだもんね。あ、そういやここにもすっげー打たれ弱いクセにプライド高いピッチャーいたわぁ」
いちいち人をムカつかせる、この人の飄々としたイヤミはホント腹が立つけど、隆也が促されるように俺を見たので俺はまたポーカーフェイスを決め込む。こういうとこがプライド高いと言われる所以なんだろう。
「じゅんたさん…」
酔いで潤んだ目で見つめられて、どんな言葉を返せばいいか分からない。
「だってさぁ!阿部くんは武蔵野行かなかったじゃん、それって榛名と組みたくなかったってコトだよね?」利央はチューハイの缶をどんと力任せにテーブルに置いた。居酒屋のおっさんか。
「う、ん」
「恨んでるの?榛名のこと」
慎吾さんの言葉に、隆也は小さく硬直した。そして、なんともやりきれない表情でチューハイをごくんと飲んだ。
恨んでるかと訊かれて否定しない。だけどこの表情からは正直、恨みの感情は見えない。恨みとは違う、憎しみとも少し違うような、ただただ辛そうな瞳が、言葉を紡ぐことをせずに揺れている。
「俺なんてさぁ!高校も大学も兄ちゃんに美丞受けんなって言われて…っ」
それは頭の問題だ、と冷静に慎吾さんに否定されても利央は隆也に泣きつくのをやめない。コイツもいい加減酔っ払ってる。
「もういいでしょ。あんま絡まないでください」
俺は隆也の手からチューハイを取り上げた。隆也の目が恨めしげに俺を睨んで、拗ねたような何か言いたげな、幼い顔で口をへの字にする。みんなの前で、そんなカオ見せんなよ。
「もう寝な。明日はバイトないんだろ?」
「ハイ…」
「あべくんおれもねるぅ」
その辺に転がっていたクッションを枕にして、隆也と利央は部屋の奥で抱き合って寝た。というより利央が隆也にひっついてる。その光景は昔テレビで観た大型犬と少年のアニメを彷彿とさせた。
「もーなんなのソッコー寝ちゃってさぁ」
「そら完璧仮眠したヤマちゃんとは違うだろ」
お怒りのヤマサンを慎吾さんが苦笑しながら窘める。ヤマサンはしょうがないなぁと言いながらもトランプを切り始めた。
「マジでやるんスか」
今までも散々してきたメンバーでまたババ抜きが始まった。
「つかさぁ、準太マジで阿部くんとなんかあったの?」
来た。千里眼慎吾さんの追及が。
「なんかってなんスか」
「四月からは考えらんねーくらい可愛がってんなぁと思って。たった三ヶ月でどういう心境の変化があったんだろーって気になってさ」
「あ、それは俺も思ったね。なんていうかぁ、俺のモノ感出してるっていうか?」
「そうそう。いつの間にか名前呼びなってるしなぁ」
ほんとこの人達の観察眼は何なんだろう、暇過ぎやしないか。
「別にそんなんじゃ…授業で一緒なったりして話すこと多くなって、親しくなったんスよ。つかウチに呼ぶのもヤマサンでしょ」
「うーん、なんか言い訳クサイ」
ヤマサンの配るカードが手元に次々と飛んでくる。俺はそれを集めてカードを選別し始めた。
「準太が他人の世話焼いてるトコ見るのなんて初めてだしな」
「世話?」
「わざわざ阿部くんにはラーメン作ってあげたり、さりげなく榛名の話題逸らしたり?」
ジョーカーが、ダイヤの8の後ろに現れた。
「…たまたまでしょ」
慎吾さんはふうん、と言って口角を上げると、パラパラと同じ数字のカードを捨てていく。あっという間に慎吾さんの手持ちは二枚になった。
「よしっ、できた!」
ヤマサンもカードを選別し終えたらしい。俺の手持ちは、ジョーカー合わせて七枚も残った。
「恨んでるっていうワリには切ない顔してたもんなぁ」
「アレは確実に過去になんかあったろうねー。今でもあんな顔しちゃうくらいなら相当心の傷になってんじゃない?」
「元彼だったりして」
「どうでもいいッスよ」
「準太、」
慎吾さんがど真ん中のカードをスッと摘んで、目を細める。
「さっきからこのカードから目線全く動いてないぜ」
言葉を失った俺は、だけどそれでも顔色を変えないままそのカードを凝視する。ジョーカーの顔が、悪だくみをしているヤマサンと慎吾さんそっくりに見えた。
前途多難だな、 意味深なセリフにジロリと睨むと、また楽しげな表情で
「今日のお前、感情ダダ漏れ」と慎吾さんは言うと、真ん中のカードからパッと指を離し右端のカードをあっさりと引いた。
日付が変わった直後に誰かの携帯が鳴った。
バイブにしているのか、振動音だけが部屋に響く。
「誰?」
「利央か阿部くんじゃね?俺のも違うし」
ほっときゃ切れるだろうとも思ったが、こんな時間に万が一家族からだとしたら緊急かもしれない。俺は腰を上げて和室に入り、その辺の荷物を持ち上げてみた。
なかなか携帯は見つからない、だけどしつこく振動は続く。これは本格的に何か悪い報せなのかと嫌な予感がしながら、やっと誰かの鞄の中で震えるそれを見つけた。
「どっちのだった?」
画面に出ている着信相手の名前を見て絶句する俺に、慎吾さんがダイニングから声をかける。
「準太?」
それでも動かない俺を不審に思ったのか、おーいと言いながら俺の後ろに立った慎吾さんは、俺の持っている携帯の画面を見て「あ」と言って、言葉を飲んだ。
電話は、切れた。それきりかかってこなかった。
俺と慎吾さんは無言でダイニングに戻り、トランプを再開する。え、なに、どうしたのってヤマサンが不思議そうに俺達の顔を見比べる。
慎吾さんは何とも言えない複雑な表情をしていて、俺は完全に感情を無にしていたから、なんなのなんなの、と言いながらも追及してこない。
朝、隆也はあの着信画面を見てどんな顔をするんだろうか。かけ直すんだろうか、俺の部屋から出た後に。電話で、何を話すんだろうか。
ていうか、未だに連絡取り合ってるのかという事実にちょっと驚くくらい衝撃を受けている自分がいた。
「…『元』彼じゃなかった、ってコト?」
慎吾さんがぽつりと呟く。俺は、何も答えなかった。
隆也と利央は夏休み前半のほとんどをバイトにつぎ込み、あまり俺の部屋へは来なかった。
後半は花火大会、ドライブ、プールと、今年の夏は色んなところへ行った。大学二回生ってこんなに遊んでばっかなのかと自分でも驚くくらい、くだらない遊びも楽しい遊びもめいっぱいやった。
隆也もほぼ俺達と一緒に過ごしたけど、やっぱり野球やってる時が一番楽しいと言っていた。それは俺もそうだ、野球が一番楽しい。
夏休みも終わりに近づいた頃、その日は朝から雨が降っていた。
雨は好きじゃない。
だけど、嫌いだと思っていた頃よりは、いくぶん気分は楽になった。
もう二度と雨を好きになることはないと思っていた。でも隆也と過ごす日々の中で雨に遭ったことも何度かあって、そんな時俺はやっぱりあの日のことを思い出しかけた、けど。
準太さん、肩冷やさないようにしてくださいね。
真っ先に隆也がそう言って俺のことを気にかけてくれるから、だんだんとあの夏の記憶よりも、今の隆也との時間が俺の小さな脳みそを上書きしていくのをじわじわと感じていた。
やがて俺は雨が降ると一種の期待みたいなものが胸に浮かぶのを自覚するようになって、そんな時やっぱり隆也は自分より背の高い俺に傘を差してくれるし、傘がない時は俺の右腕を掴んでどこかへ雨宿りしようと言った。そう、俺はパブロフの犬になった。
隆也がそばにいない時はちょっとしんみりした気持ちになりかけるけど、だけど以前のように心が重く沈む感じはない。
今日もそうで、珍しく誰もいない部屋で一人、窓の外の雨に目をやる。分厚くてグレーがかった白い雲が一面空を覆っていて、雨の落ちてくる姿は直前まで見えない。俺は靴を履いて外に出た。
マンションの前の公園は、当たり前だけど誰もいない。朝から降り続く雨で土もぬかるんでいる。蒸し暑い空気の中、 雨の音だけがしてる、雨の音しか聞こえない。
静かだ。
しばらく一人で、公園の真ん中に突っ立っていた。まるであの日のマウンドみたいに、雨に濡れて、ぼんやりとしていた。
「準太さん」
雨の音を壊さない、低い声が俺を呼んだ。不思議と驚かない自分に苦笑する。
「隆也」
「何してるんですか」
小走りで近寄ってきた隆也は、柄を持った右手を高く上げて俺を包み込むように傘を差し出した。隆也の髪が、服が、どんどんと雨粒に色濃く濡らされていく。それでもそんなことお構いなしに、隆也は俺だけを傘に入れた。
「ちょっと雨に打たれてた」
「見りゃわかります。風邪ひきますよ」
「真夏なんだしひかねぇよ」
とりあえず部屋入りましょう、隆也は俺の腕を掴む。俺は隆也の目を見つめたまま、ゆっくりと彼の肩に両腕を回した。
「準太さん?」
肩を抱き寄せて自分の首元に彼の顔を埋め、少しだけ力を込めた。
隆也は多分俺が落ち込んでるとでも思ってるんだろう、拒みもせずに素直に両腕を俺の背中に回す。傘が倒れないように右手だけは力を入れているけど、左手はためらいがちに、優しく俺の身体を包み込む。
彼はいつも、こうして俺を支えようとしてくれる。その献身は投手である俺だけに向けられているものだと分かるから、尚更胸が熱くなる。
「どうしたんですか?」
「んー…考えてた」
「何を」
「隆也のこと」
意外な答えだったのか、隆也はえ?とちょっと間抜けな声を出す。そして、俺がどうかしましたか、と訊いてきた。
だけど、本当のことだ。隆也のことを考えてた。ここ最近はずっとずっと、隆也のことばかり頭に浮かぶ。
かわいい後輩だと思うし、一緒にいて楽しい仲間だと思えるし、根っからの捕手体質な彼に口うるさく心配されるのも、すごく嬉しい。
同じ大学で良かった、一緒に野球ができて良かった、隆也と出会えて良かったって、本気で思う。
そうだもう答えは出てる。俺は、
「隆也が好きだ」
雨の音が聞こえなくなった。 彼の吐息ひとつ聴き漏らしたくなくて、俺は外界の音全てから耳を塞いだ。